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2007年1月26日 (金)

「ホワイトカラー・エグゼンプション」

 48回目のブログです。

 今回は労働政策について考えてみたいと思います。最近かまびすしく議論され
てきたことに、「ホワイトカラー・エグゼンプション」があります。知能程度があまり
にも低いせいでしょう、わたしには難しすぎる用語で、理解不能ですが、おそらく
「ホワイトカラー・免除」すなわち、ホワイトカラーの労働時間への規制を撤廃しよう
ということ(残業規制なし・いわゆるサービス残業容認・年俸制の一般化)なんで
しょうか。

 1月12日のブログでも書きましたが、政府、官僚には、内容を明確にしたく
ない時に、“めくらまし”(これは差別用語でしょうか?)として、難しいカタカナ英語
・カタカナ言葉を使用し、一般国民に対して優越感に浸ると言う、陰湿で偏った傾
向があります。カタカナ英語で、改革だ、前進だ、抜本的だ、グローバリズムだ
などと言うときは、すべて、胡散臭いと見なければなりません。
後ろめたいのです。
正常な日本語感覚を持っていれば、理解不能な言語を発することは避けるもの
ですから。

 この「ホワイトカラー・エグゼンプション」が注目されたのは、その推進論者で
ある、奥谷禮子女史の発言からです。奥谷女史は、人材派遣会社ザ・アール
社長、政府審議会委員、経済同友会、
日本郵政株式会社社外取締役などの
要職にありますが、さらに、あのアムウエイの経営諮問委員でもあります。彼女
の労働政策審議会労働条件分科会などでの発言はつぎの通りです。

  労働者の過労死は自己管理の問題であり、会社や上司の責任ではない。
   本人がきっちり自己主張し、休みを取らないからである。
  日本の祝日は一切不要であり、休日は、各個人が個別に決めるべきで
   ある。
  労働基準監督書も不要であり、個別企業の労使が決めればよい。労働者
   に不満があれば、すべて、会社を訴えればよいではないか。
  格差論は甘えであり、格差はあって当然のこと。何の対策も必要なし。
  
 ほんとうに、冷血とはこのことかというほどの、みごとな議論ですね。あらため
て、非常識と冷血さをご教示賜りたいものです。

 それでは、彼女の主張について考えてみます。

 ① 彼女の発言を、議事録、雑誌、TVでも見ましたが、たとえ枕詞としても、過
   労死された方への一片の同情すら発しておりません。もちろん、死んだ人が
   悪いと考えているお方ですから、当然と言えば当然なのでしょうが、それに
   しても、日本人としての美徳である、過労死された方への些かの同情は
   あってよいのではないでしょうか。


   わたしは、過労死はその組織の問題であると考えます。厳しい競争社会
   (社外・社内)のなかで、本来、組織は、激務を求めています。それに柔軟
   に対応する従業員は、特に問題はありませんが、性格的に対応できない
   従業員などは、必死に激務をこなそうとし、挙句に、一部の人は過労死に
   至るものです。それを防ぐのは、もちろん、当人の自己管理も必要ですが、
   会社であり、その組織の幹部ということではないでしょうか。自己管理を越え
   たところに過労死という厳しい事態が発生しています。奥谷女史は、あまり
   にも自己管理を主張し過ぎであり、死者にのみ責任を押し付けるべきでは
   ありません。常識で考えても、普通の経営者で普通の人間ならば、周辺で
   過労死が発生すれば、寝覚めが悪いものです。

  わが国のリーダーによる、祝日不要論は、生まれて始めて聞きました。奥谷
   社長の追求する価値は、会社の利益のみであり、他はすべて無視してよいと
   いうことなのでしょう。祝日は、日本人の連帯感を確認する時であり、国民全
   体で崇高な歴史を認識する時でもあり、さらには、その皮膚感覚を生活のリ
   ズムのなかで呼び戻す時でもあります。
奥谷さん!貴女は日本国民ですか?
   公職にあるひとは、ためにする奇矯の論は止めるべきではないでしょうか。
   どこに祝日のない「国」がありますか。

  労働基準法は、前時代の遺物ではありません。おしなべて言えば、組織の
   意志は、水の流れと同じであり、低きに流れるものです。労働基準法がな
   ければ、国民としての健康な生活を維持することはできないでしょう。問題
   があれば、その法律を随時改正して、時代に合わして行くのが本道です。

   奥谷社長は、労働者が不満をもてば、すべて告訴すればよいと主張します
   が、訴訟には、膨大な、時間とお金と知識とエネルギーが必要です。訴訟
   社会を理想とする考えは、アメリカ合衆国を理想としているのでしょうが、
   アメリカ社会の歪みは随所に指摘されています。ここは、日本です。告訴・
   訴訟社会は、日本人の感覚には合致しないし、アメリカは真の理想国家で
   はないと考えます。わが国には、わが国の歩み方、すなわち、すぐれた歴史
   と伝統と国民性に応じた歩み方
があるのではないでしょうか。

  奥谷社長が言うように、格差は当然あるもの、また、あるべきものでしょう。
   しかし、今論じられている格差が、どのデータに基づくものかを明確にした
   うえで、将来の社会構造を描き、生き生きとした、安定した社会を築くため
   に、必要な対策は立てるべきだと考えます。何の対策も必要がないという
   のは、わが国のリーダーとしては、無責任といえるのではないでしょうか。

 要するに、奥谷社長は、誤ったアメリカ基準至上主義の持ち主であり、その
発言は、自業界、自社のためになる私益追求のオンパレードであると思います。
以前ブログで触れた北城恪太郎氏も経済同友会であり、奥谷社長も経済同友
会ですが、奇しくもお二方とも私益論者の色が濃厚ですね。

 政府審議会委員などという公職に要求されるのは、わが国の国家構造と国民
経済に基づいた議論であって
、自らが属する業界や自らが率いる会社の利益に
のみ結びつくと思われる発言は慎むべきではないでしょうか。

 その意味で、「ホワイトカラー・エグゼンプション?」は、表題はもちろんのこと、
内容そのものを、あらためて真摯に再検討し、早急に法案化されるるべきだと
考えます。

 みなさんは、どのようにお考えですか。

次回は
時事エッセー
です。

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コメント

塾長様
先週の週刊誌の広告を見て、驚きました。確か、週刊ポストだったと思うのですが、塾長と全く同じ論調の大きな見出しが出ていました。私は自分の未熟を棚に上げて、塾長の論に反対したのですが、天下のポストが野宗主宰と同じ論陣を張られているのです。もし、ご覧になっておられないなら、御一読をお願いします。
村上建夫

投稿: 村上建夫 | 2007年3月 1日 (木) 15時51分

村上さま、コメントありがとうございます。この“ホワイトなにがし”に絶大なる賛意をあらわされていますが、これは、私の基本的立場とことなります。私は、①祝日の意識がないような人が、国民を代表して、公の議論をすべきではなく、したがって、そのような人が議論している中身には、胡散臭さがあると思っていますし、②アメリカ万歳ではなく、もう少し、わが国流の考えをまとめるべきだと考えています。また、③現在でも、企業は、年俸制などでかなり柔軟に対応しているところもあります。私は、奥谷女史の論は奇矯なものと思いますが、世界を股にかけたご経験の村上さまのお考えは、その論を正当なものとおっしゃいますので、これは、基本的なところでの観点の差異だと受け止めます。そうではありますが、この点については、さらに勉強させていただきたいと思います。

hiromichit1013さん、コメントありがとうございます。奥谷女史が為にする論をされていないことを望むばかりです。それにしても、東京の経済同友会は心配ですね。


投稿: のんちゃん | 2007年2月 5日 (月) 11時43分

塾長様
毎週、拝読させていただいております。各回、非常に示唆に富む内容で、1年も休みなしに連載されるなど、驚異としか言えないでしょう。
さて、今週の、奥谷女史の考え方は、塾長の引用で初めて知りました。36年前、私は大学を出て直ぐに総合商社に入ったのですが、同期入社に、アメリカで小学校から大学院、そして銀行勤めを数年間、ニューヨークーで過ごした者がおりました。彼の発言とこの奥谷女史の発言は祝日の所を除き、全く同じでした。これはたぶんアメリカに於ける昔からの普通の考え方だと思います。塾長はサラリーマンとビジネスマンを明確に区別して考えておられますが、かの地では労働者とビジネスマンを階級の異なった人種と見ているようです。労働者は保護されるべきですが、ビジネスマンは公共の保護対象にならない、自分は能力と法律で守りなさいと言うのが根本的な認識と思います。健康も自分で守らなければなりません、そのためには健康保険も自分で掛けなさい、少々健康に悪いと思っても出世のためだったら無視すると思う人は、どうぞ御勝手に、死んだら、その人の見込み違いでしたね、非常にはっきりした一貫性のある考え方と思います。労働者は自己管理の出来ない人達と思われている(私はそうは思いませんが)ので公共や組合が守ってあげねばならない、しかしビジネスマンは知りませんよ、その代わり出世したら報酬も作業員の日当より多いじゃあない、いやだったら、戦線離脱したら良いでしょう、誰も止めませんよと、考えているのではないでしょうか。今回のホワイトカラーイグゼンプションや奥谷女史の考え方はいわゆる世界標準から見て筋の通った普通の考え方と思います。休日の考え方はこの数十年で日本は変わったと思います。前は仕事中心で、夜も休日もあってないような人が多かったのですが、欧米はそうじゃない、休みもきっちり取っている、そうでないのはワークホリックという病気なのだ、え、そうなのと、日本は豊かに余裕のある国になったのでしょう。その間、アメリカは、あののし上がってきた日本人は休みも働くみたい、我々もそうしようと、なったのかも知れません。
下らぬ事を申し上げ、失礼しました。今後、益々の御健筆をお祈り申し上げます。
村上建夫

投稿: 村上建夫 | 2007年1月27日 (土) 11時11分

 全く言われるとおりです。経済同友会の靖国問題を初め、今回の問題にしても、私益追求をあたかも公益の基準の如く見せ掛け、羊頭狗肉の騙しのテクニック、あるいは本当に信じているのならば、どうしようもない亡国の徒です。それも分からないのであれば、私益を公益と思い込んでいる勘違いも甚だしい馴れ合い私益追求団体に存在の意味がない。

投稿: hiromichit1013 | 2007年1月26日 (金) 08時34分

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