時事エッセー・岡潔先生のことば
53回目のブログです。
先々週の「人間性の喪失」は、大いにみなさん方の関心を引いたようで、各界
の方々から、良いところに光を当てたとお誉めにあずかりました。今や、捏造ば
やりの世の中とは言いましても、リーダー格の政治家が、厳然たる事実(阪神
淡路大震災での自衛隊救援活動)を無視し、嘘をでっち上げることなど、許し
がたいという思いの方々が多く居られるということでしょう。
今回は、少し冷静に、落ち着いたものにしたいと思います。昨年、平成18年の
ベストセラーの本と言えば、数学者、藤原正彦先生の「国家の品格」でした。
220万部を超す、圧倒的なベストセラーですが、今年に入っても、まだまだ売れ
ているようです。すべての日本人に誇りと自信を与える画期的な日本論であり、
眼から鱗の新鮮な驚きを隠し得ない書物だと思います。
数学者と言えば、懐しく憶いだす方に、奈良女子大学教授の岡潔先生があり
ます。岡先生は文化勲章を授けられた著名な教授であるとともに、わが国の行く
末に心の底から警鐘を鳴らされた、真に国を思う碩学でもありました。
岡先生は、昭和38年(1963年)憂国の名著『春宵十話』を著されました。心と
教育に関しての斬新な説得力をもつ素晴らしい書物であり、心ある人たちは競
って求め、画然たるベストセラーとなったものですが、この書物に書かれている
ことは、藤原先生の考え方とほとんど同じであると思います。
私は、当時は学生でしたが、この『春宵十話』に触発されて、昭和39年か、ある
いは40年に、友人らとともに先生宅を訪問し、長時間に亘り、お話を聞きました。
直接の教え子ではない、他大学の初対面のわたし達に、いろいろお教えいただ
いたことは、今も鮮明に記憶しています。どのような学生であれ、教えを乞う学生
には、暖かく接するという、このような岡先生の雰囲気は、現在の大学にも残って
いるのでしょうか。
昨年10月に、名著『春宵十話』が、この混迷の社会、教育界を救う、一条の光
として、復刻されました。一読を薦めます。
書 名 『春宵十話』
著者名 岡 潔
価 格 500円(税込)
出版社 光文社(光文社文庫)
以下、岡先生のことばをこれらの書物から抜書きします。
「どうもいまの教育は思いやりの心を育てるのを抜いているのではあるまいか。
そう思ってみてみると、最近の青少年の犯罪の特徴がいかにも無慈悲なこと
にあると気づく。これはやはり、動物性の芽を早く伸ばしたせいだと思う」
「頭で学問をするものだという一般の観念に対して、私は本当は情緒が中心に
なっているといいたい。…情緒を養う教育は何より大事に考えねばならない
のではないか。」
「私は数学専攻に踏み切るのには臆病だったが、外国の文化を恐ろしいと思っ
たことはなかった。この点、一般の日本人は逆で、数学というものには恐れを知
らなさすぎるくせに、外国文化を恐れすぎる。この誤りをはっきりいっておきたい。」
「よく人から数学をやって何になるのかと聞かれるが、私は春の野に咲くスミレ
はただスミレらしく咲いているだけでいいと思っている。咲くことがどんなによい
ことであろうとなかろうと、それはスミレのあずかり知らないことだ。咲いている
のといないのとではおのずから違うというだけのことである。」
「文化の型を西洋流と東洋流の二つに分ければ、西洋は主にインスピレーショ
ンを中心にしており、これに対して、東洋は情操が主になっている。」
「理想とか、その内容である真善美は、私には理性の世界のものではなく、ただ
実在感としてこの世界と交渉を持つもののように思われる。…理想はおそろしく
ひきつける力をもっており、見たことがないのに知っているような気持になる。
それは、見たことのない母を捜し求めている子が、他の人を見てもこれは違うと
すぐ気がつくのに似ている。だから基調になっているのは“なつかしい”という
情操だといえよう。これは違うとすぐ気がつくのは理想の目によってみるから
よく見えるのである。そして理想の高さが気品の高さになるのである。」
「情緒の中心の調和がそこなわれると人の心は腐敗する。社会も文化もあっと
いう間にとめどもなく悪くなってしまう。そう考えれば、四季の変化の豊かだった
この日本で、もう春にチョウが舞わなくなり、夏にホタルが飛ばなくなったことが
どんなにたいへんなことかがわかるはずだ。」
「善行とは分別智のはいらない行為だと言ったが、私の祖父はこのことを十分
よく知っていたと見えて、私の数えで五つの年から自分の死に至るまで、一貫
して、“他を先にし自分を後にせよ”という道義教育を施した。」
「動物性の侵入を食いとめようと思えば、情緒をきれいにするのが何よりも大切
で、それには他のこころをよくくむように導き、いろんな美しい話を聞かせ、なつか
しさその他の情操を養い、正義や羞恥のセンスを育てる必要がある。」
「道義の根本は人の悲しみがわかるということである。」
「天の秩序のもとは礼なのである。敬うことは必要だが、敬うだけでなく礼をする
ことはさらに必要だと思う。生徒は先生にお辞儀をし、もちろん先生のほうも
すべて人の子であるという意味でお辞儀をするべきだと思う。“衣装して梅改める
匂いかな”(蕉門の句)。礼を抜きにすることはなれることであり、ここからやはり
獣性が入ってくるのである。」
「学科を三つに分類して、1<こころ>、2<自然>、3<社会>とすることが
できる。このうち、こころに属するのは算術、歴史、国語、修身などで、小学校
ではこういう学科を主とすればよいと思う。
自然に属する理科、地理などは五、六年でわずかに教えるくらいでよい。こころ
は真智の目だけで見ることができるけれども、自然を見るには有無の分別が
いる。有無の分別は妄智の一種にほかならず、この方面に興味が動き始める
五、六年ごろまでは教える必要はないのである。
社会を学ぶとなると、さらに自他の区別がいる。これはもう分別ではなく“自他
弁別本能”という本能の一種である。へたに社会を教えてこの本能を育てる
ようなことはつつしむべきだと思う。」
以上、含蓄に富んだ箴言ともいうべきことばだと思いますが、一つ一つ、上下こも
ごも混乱する現在の状況への指針となるように感じます。
みなさんはどのようにお考えでしょうか。
次回は
時事エッセー
です。
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