阪神淡路大震災から13年・佳い話!
101回目のブログです。
101回目、新たな気持ちでブログをすすめていくつもりです。
年を明けても、なかなか明るい話題が少なく、何か気が滅入るようなことばかり
です。相変わらず異様な殺人事件は続いていますし、株価も下落幅が大きく、石
油、為替はどうなることやら、また、政治も迷路に入ったまま、にっちもさっちもと
いう状況です。
こういう時は、明るい話、心温まる話、何か「ホッ!」とする話がいいですね。
ところが世の中にはあるんですね。あります。既に読まれた方もおられるかもしれ
ませんが、ご紹介しましょう。
■ 自衛隊員になった少年「命の恩人に憧れて」
「良平!」「大丈夫か!」。自分を呼ぶ声が遠くで聞こえ、目を覚ました。
なぜ呼ばれたのか、どこにいるのか、何も分からなかった。辺りはただ真っ暗。
身動きができなかった。「ここにおるよ!」。力いっぱい叫んだが、相手に届い
たのかどうか。すぐに意識を失った。
平成7年1月17日午前5時46分。当時、小学3年生だった陸上自衛隊第3
特殊武器防護隊所属の安藤良平陸士長(22)=兵庫県伊丹市=は、神戸市
兵庫区中道通で被災した。自宅のあった3階建てのマンションは全壊。中道地
区は倒壊家屋が多く、犠牲者は70人以上に及んだ。
3階の一室に家族4人で住んでいた安藤さんは、崩れ落ちたがれきの下敷きに
なった。けがはなかったが、倒れかかったタンスと壁の隙(すき)間に入り込み、
救助されたのは発生から半日以上経った午後6時前。避難所となった近くの
小学校で、父親の政弘さん(52)に抱きかかえられていたとき、ようやく意識が
戻った。
地域住民らが身を寄せ合う真冬の小学校。ビニールシートと木材で校庭に建て
られた仮の住まいで約3カ月間、避難生活を送った。その間、相手をしてくれた
のは、避難所を毎日訪れる若い自衛隊員だった。
隊員はときに遊び相手になり、話し相手になってくれた。来るのは昼過ぎの給
水時間。生活再建の悩みなどで重苦しい雰囲気の避難所で、隊員は優しく、頼
しい「お兄ちゃん役」だった。
そんな自衛隊員が「命の恩人」だと知ったのは、約2年後の小学5年生のころ。
半日以上も意識が戻らなかった息子を心配してか、震災のことをほとんど語らな
かった父が教えてくれた。
発生直後、政弘さんら3人は外に飛び出したが、安藤さんだけが室内に取り
残された。室内は壁が崩れ、天井がゆがみ、タンスが倒れていた。政弘さんは
「助かってほしい」と祈るしかなかった。そのとき、駆け付けた隊員が、かすかに
聞こえる声を頼りに安藤さんを助け出したという。
苦しい時に手を差し伸べてくれる頼もしい人-。避難所の優しいお兄ちゃんと
命の恩人がひとつに重なったとき、安藤さんは自衛隊員になると誓った。
地元の高校を卒業後に入隊。訓練は想像以上に厳しかったが、「人を助ける
人間になるには必要」と言い聞かせた。配属先は、放射能汚染や洪水災害後
の防疫、消毒作業などを行う化学科を希望。危険な仕事だが、困った人を真っ
先に助ける職種に思えたからだ。
今春で自衛隊員になって丸4年になる。各地で地震、水害が頻発するが、災害
現場への出動経験はまだない。それでも日々の訓練を通し、1人の被災者を救
助することでさえ難しいことを知った。
責任の重さも痛感している。知人に自衛隊員になったと言うと、必ず「頑張れ」
と励まされる。13年前の自分と同じように、自衛隊員に助けられた被災者は多
い。「がれきの下から助け出された自分だからこそ、いまの仕事に生かせること
があるはず」と話す。
震災から間もなく13年。うれしい知らせも届いた。救出してくれた隊員が見つ
かり、16日午後、自宅跡地で再会するという。そのとき、こう伝えたいと思って
いる。
「あなたと同じ自衛官になりました」
(2008/1/11 SANKEI.MSN)
上のお話は、昨年の2月にブログに書いたことと同じですが、この被災した少年
の純粋な精神には何か心が動かされます。このような少年が大人になり、自衛隊を、
いや、日本を支えていこうとする姿に、何かホッとするものを感じざるを得ません。
それにしても、あらためて思い出しますが、この自衛隊の震災救援活動に対して
口汚く罵しったり、無視したりした政治家や官僚達(たとえば、阿部知子社民党衆
議院議員、村山富市総理大臣、貝原俊民兵庫県知事…当時…)は、この話に苦
虫をつぶしているのでしょうか。あるいは、イデオロギーに心が薄汚れてしまった
これらの人々は、この安藤良平少年の純真な精神に心を動かされるという普通の
人間性を喪失してしまっていると考えれば、何も感じないのでしょうか。
さて先日、1月16日、この安藤良平陸士長は大震災時の命の恩人と初めて
感動の対面をしたそうです。新聞記事から引用しましょう。
■「あなたの背中追って自衛官に」
当時9歳、命の恩人と初対面
13年前の阪神大震災でがれきの下から、救助されたのをきっかけに自衛隊員
になった陸上自衛隊第3特殊武器防護隊の安藤良平陸士長(22)―兵庫県伊丹市
―が16日、助けてくれた自衛隊愛知地方協力本部の篠原光繁陸曹長(46)と初め
て対面した。
命の恩人を前に安藤さんは「あなたの背中を追って、人を救助する側になりま
した」と報告。篠原さんは「これからは、あなたが頑張ってください」と激励した。
対面は、安藤さんが「助けてくれた隊員にお礼を言いたい」と上司に伝え、実現
した。
篠原さんによると、当時、兵庫県姫路市の別の隊に所属しており、震災当日の
午前8時ごろに被災地入り。午後6時ごろ、神戸市兵庫区内のマンション一室で
倒れかかった家具と壁のすき間で、当時9歳だった安藤さんを発見。「僕、大丈
夫?」と抱きかかえると、しがみついてきたという。
この日、安藤さんは神戸市中央区の自衛隊兵庫地方協力本部で篠原さんと
対面。迷彩服姿の安藤さんは「13年前は本当にありがとうございました」と感謝
の言葉を述べ、握手を交わした。この後、助け出された自宅マンションの跡地や
避難所となっていた小学校跡地を訪れ、当時を振り返った。
篠原さんは「当時、生きて救助できたのは2人だけ。そのうちの少年が自衛官
になったと聞いたときはとても驚いた」。安藤さんは「篠原さんの背中を追ってき
た。この迷彩服姿を見せたかった」と喜んでいた。
(1/17産経新聞)
お二人においては、おそらくは感動の対面であったと思われます。この場面こそ
は、理屈ではない、身をもって授けた教育の成果…真の教育…と言えるでしょう。
また、ある意味で師と弟子と評することもできます。
このような素晴らしい人達と、自衛隊蔑視の薄汚れた人々との間には、その精神
において天と地ほどの差があるのではないでしょうか。
その意味において、視聴者や読者に大いなる感銘を与える記事に纏められた産
経の記者に敬意を表します。マスメディアは、新聞、テレビ、雑誌、WEBすべてに
おいて、このような佳い話を出来るだけ拾い上げて報道してほしいと思います。世
の中は急速に荒んできていますので、心の浄化のためにも、お願いしたいものです。
みなさんはどのようにお考えでしょうか。
次回も
時事エッセー
です。
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