手書き文字…この素晴らしき美と心!
115回目のブログです。
いわゆるゴールデンウイークも終わりましたが、このなかには、大きな意味を
持つ祝祭日、「昭和の日」と「こどもの日」がありました。「昭和の日」は、激動の
荒波をくぐり抜けた昭和という時代と、その精神的バックボーンであった昭和天皇
(昭和大帝とも称すべき)に静かに思いを馳せる日であり、「こどもの日」は、今、
少子化が問題となっていますが、子ども達のすくすくとした成長を、国民として、心
から真剣に祈る日であったわけです。
それにもかかわらず、マスコミは相変わらず、“連休”または“GW”ばかりを取り
上げているようで、ことの軽重に配慮を欠いています。ゴールデンウイークよりも
祝祭日をより強調しなければならないことは言うまでもありません。
ところで、こどもの日は永い歴史を持ってはいますが、「こどもの日」という表現
は締まりがなく、リズム感も乏しく、意味合いも明確ではなく、本来の表現である
“端午の節句”と言う方が力強く、何となく祝祭日らしい風格を感じさせてくれます。
その意味で、『こどもの日(端午の節句)』というW表現の方が歴史的な意味合いも
含んでおり、適切ではないかと考えています。
さて、先日友人から書道展の招待券をプレゼントされましたので、観賞して
きました。「伝統と創意 2008年 日本書芸院展」と併設の「特別展観 東大寺御宝
・昭和大納経展」です。
日本書芸院は昭和21年に発足した、わが国では最有力の書道の団体ですが、
今回は、文化勲章授章者、日本芸術院会員、文化功労者などの書道大家の大作
が披露されており、圧巻でした。わたしは書は嗜みませんが、展示されている書は、
漢字、かなを自在に自由に表現しており、これこそ書の極み。門外漢ながら、まさ
に芸術であるとの印象を強く持ちました。
わたしは今まで書道展には二三回行きましたが、こんなに大掛かりなのは初めて
であり、いや、なかなかの目の保養になりました。
今や世の中はパソコン全盛。紙の上に書くというよりは、キーボードに打つという
時代になったわけですが、このブログもまさしくそうです。もちろんパソコンにはいろ
いろの書体(明朝・ゴシック・教科書・宋朝など)がありますが、手書きと較べれば、
所詮、全く異なったものと言えましょう。
手書きは、十人十色、各人それぞれ持ち味が異なり、今回展示のような大家で
なくとも、それなりに趣を感ずることができます。若者世代では、携帯、パソコンが
情報伝達の日常的ツールとして定着しており、手書きは少なくなっていると言われ
ますが、それでも特徴ある表現、デザインはいまでも手書きであり、それぞれ趣向
を凝らしているようです。
展示会場には、若い人も少なからず入っていましたから、これだけの大家の
作品の素晴らしい芸術的表現に魅入り、それなりの感銘を受け、自分の感性に
プラスになったものと思われます。
数多くの出展のなかで、最も関心を引いたのは、「特別展観 東大寺御宝・昭和
大納経展」です。華厳宗大本山・東大寺の金堂である大仏殿の昭和大修理は、
昭和49年(1974)に始まり、昭和55年(1980)に落慶。その時、天平の華厳経を
手本に「昭和の華厳経」60巻と願文、結縁状の合計62巻が奉納。
この62巻がまとまって出品されていましたが、まさに圧巻、静かに心と魂に響く
素晴らしいものでした。それこそ、昭和の祈りの美、心の美が結集していたように
思います。
わたしは書道やお経にはそんなに詳しくありませんが、経巻の題簽(だいせん・
題名)には、昭和を代表する書道家、西川寧・金子鴎亭・青山杉雨・安東聖空・
日比野五鳳・村上三島が揮毫、経文は当代一流の書家多数が書写。
さらに驚くべきことは、経巻の扉を飾る見返し絵には、わたしでも知っている、
文化勲章受賞者である東山魁夷・奥村土牛・上村松篁などを含む、昭和を代表
する日本画家68人がそれぞれの個性を発揮し、静かに心の美を表現している
ことでした。
納経というのは、祈りの美、心の美を存分に発揮できるほどの精神の高揚を
もたらすものなのでしょうか。何とはない不思議な感銘を覚えざるを得ませんでした。
一流の書家が経文を書写している写真も展示されていましたが、全員覆面瓠
(ふくめんこ・マスク)をして一心に書写している姿には、凛然とした雰囲気を感じ
ないわけにはいきません。仏教における写経には、それに向かう心が大事だという
ことを教えてもらった断片でした。
今、わが国の世相は荒れるにまかされており、ますます混沌の度合いがひどく
なっていることは、誰しも認めるところです。そのなかで、宗教界の役割は何かが
問われているのではないのでしょうか。
その意味では、先日の長野のオリンピック聖火リレーで、善光寺が、①その胡散
臭い北京オリンピック聖火リレーにより清浄なる境内を汚されたくないこと、②同じ
仏教徒であるチベットを虐殺弾圧する中国へ強く抗議すること、の二点でもって、
スタート地点を断固拒否するという、仏教界、宗教界の本義を発揮したことは、
画期的なことであり、注目に値することだと思います。
善光寺は、この判断により、中国を除く世界のメディア(英BBC・独Welt・仏AFP
など)から、日本で唯一の宗教的正統の発言者として極めて高い評価を得、それと
ともに必然的にわが国仏教界の最高峰に位置したことになりました。誰がみても、
政府首脳の卑屈なチンタラ発言や仏教大教団のヘタレ対応に較べれば、善光寺
の決断は凛然とした見事なことと言わなければなりません。
わが国、日本は、内面の心においては、神の国であり、仏の世界です。正統なる
神と仏の精神が世の中を覆うように努めなければ、なかなか世の中は良くならない
でしょう。そういった意味では、このたびの善光寺は大変な感化力を発揮したと
言えるのではないでしょうか。宗教界は、仏教界のみならず、すべからく、善光寺
に続くべき道を模索すべきだと考えます。
一流の書家の手書き文字と東大寺の経巻を拝観しての感想でした。
みなさんはどのようにお考えでしょうか。
次回も
時事エッセー
です。
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