晩秋の壱岐島…その自然と歴史に触れる!
194回目のブログです。
先日、晩秋とはいえ、ぽかぽかするくらいの暖かい天候のもと、気のおけない友人
8人と2泊3日の壱岐・対馬を旅行しました。旅行とは言っても、研修をも目的にして
いますから、その島の歴史と実体にスポットを当てたものになっています。
新大阪から博多まで新幹線、博多駅~博多港は市バス、博多港~壱岐~対馬は
ジェットフォイル船。特に海上を颯爽と滑るようにしてすすむ船旅は何にも替えられ
ない、ゆったりとした寛ぎを感じさせてくれ、日頃から蓄積した心の汚れが徐々に
落ちていくようでした。
壱岐では、はらほげ地蔵、海蝕崖の左京鼻、弥生時代の原の辻遺跡、万葉公園、
少弐公園・弘安の役跡を巡りました。
壱岐島は山も高くても210mであり丘というべきでしょうし、平野部が圧倒的に
多く、昔から、大いなる自然に恵まれた豊かな島であったことを想像させます。
したがって、玄海灘の夢の浮島と称されているのもむべなるかなとの感想を持ち
ました。
■ ほらほげ地蔵
六体の地蔵さんが今も海女で有名な八幡浦の海中に祀られています。お腹が
丸く抉られているために“ほらほげ”と言われ、紅い布で頭とお腹がおおわれて
いる姿は海の青との素晴らしいコントラストを示しています。六地蔵は六道
(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)において、衆生の苦しみと悩みを救済する
と言われていますから、わたしも手を合わせましたので、煩悩から救われること
を期待したいものです…。
■ 左京鼻
八幡半島の突端にある“左京鼻”は海蝕絶壁が1kmも続き、なかなか見晴らし
のよいところであり、先端には天を突く形の玄武岩の柱状節理(柱状の割れ目)
の岩礁があります。左京鼻の由来は、陰陽師の後藤左京が飢饉に際し、一身
を賭して雨の祈祷を行い、さいごに大雨を降らすことが出来たことによるそうで、
先端には、左京鼻竜神の社がありました。絶景です。
■ 原の辻遺跡
今から2200~1700年前のものと推測される弥生時代の大規模な環濠集落。
「魏志倭人伝」の中の“一支国”(いきこく)の王都とされており、東西南北1km
四方というかなり広いものです。現在発掘調査を続行中であり、高床式建物
などが十棟以上もあり、発掘された土器類なども無造作に並べてあり、間近に
見ることができました。古代史を換えるような発見が相次いでいるそうで、なか
なか見ごたえがあります。
■ 万葉公園
低い丘にある万葉公園は、黒木城跡にあります。「万葉集」に名を残す雪連
宅満(ゆきのむらじやかまろ)は卜部(うらべ・卜術役)として、遣新羅使の随員
でしたが、航海途中に死亡し、出身地の壱岐・石田野に葬られました。この
万葉公園には、万葉集に因んでの雪連宅満への挽歌が刻まれています。
「 石田野に 宿りするきみ 家人の
いづらとわれを 問はばいかに言はむ 」
■ 元寇の名残(少弐公園・弘安の役跡)
壱岐は国境の島として再三にわたり、外敵の来襲をうけた歴史を有しています。
そのなかでも、わたし達でも知っている最大の受難が、元寇(蒙古襲来)であり、
文永の役(1274)と弘安の役(1281)といわれるものです。
特に弘安の役では、壱岐の守備隊は善戦むなしく、島内にはわずか数十人しか
生存者がいないというほど、壊滅させられたのですが、その時の一軍の将が、
若干19歳の少弐資時(しょうにすけとき)です。
少弐資時の石積みのお墓が公園に佇んでいますが、わたし達は、当時の国家
防衛の任にあたり苦しい戦いのなかで絶命した少弐資時のお墓に静かに手を
合わせました。
この公園に隣接して、壱岐神社が建っています。壱岐神社は少弐資時を祀って
いますので、ここでも、2拝2拍手1拝の参拝をし、慰霊とともに、国境の防衛を
祈願しました。
教科書では、元寇、蒙古襲来、文永の役、弘安の役は一応は習ったのですが、
百聞は一見に如かず、現地に立てば、その歴史の重み、重大さを実感できます。
企業でも、三現主義(現場・現物・現実)が重要なキーワードとして位置づけられ
ていますので、少なくとも、できるだけ“現場”を直視することが肝要だと思います。
壱岐島…それは、豊かな島であり、歴史が活きている島です。食べ物も美味しく、
人情ものびやかであり、明るい人達ばかり、魅力に溢れた島でした。
魅力一杯の壱岐島から、後ろ髪を引かれる思いで次の対馬へ向かいました。
既に夕刻、地球の丸さを感じさせる海面の上に雄大に広がる雲の間から、真っ赤
というよりもオレンジ色の夕日、沈む太陽の素晴らしい眺めは、今流行りの言葉で
言えば、“癒し”そのものです。
何はともあれ、一度訪ねられることをお薦めします。
みなさんはどのようにお考えでしょうか。
次回も
時事エッセー
です
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