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2009年11月 6日 (金)

旧西尾家住宅(重要文化財)を訪ねる!

 193回目のブログです。

 早いもので、もう11月、霜月となり、今年も残すところあと2ヶ月です。年々1年が
早く過ぎていくようで、できるだけ早期に、近隣の史跡や文化財を訪ねておくべきと
思い、先日、「旧西尾家住宅」を訪ねました。

 「旧西尾家住宅」は、わたしの住む隣市(大阪府吹田市)にあり、自転車でゆっくり
約30分のところにあります。

 西尾家住宅なんて、わたしは全く知らなかったのですが、10月17日の新聞に、
文化審議会で、国の重要文化財建造物として旧西尾家住宅が答申されたとの記事
が掲載されましたので、興味を持ったのです。まさか、こんな近くに重文があろうとは
想像もしていませんでした。

 旧西尾家住宅は、主屋(延床面積199坪)、離れニ棟、茶室、蔵三棟、温室など
多彩な建物と風情ある庭園から成り、敷地は1400坪を誇ります。これが市の中心
部にあるのですから驚きです。

 ここは現在一般公開されており、ボランティアの方から1時間に亘り、すべてを案内
していただき、親切でわかりやすい説明を受けました。

 西尾家は江戸時代に仙洞御料の庄屋を務めた名家です。仙洞御料とは、天皇を
譲位した上皇、法皇の所領地のことであり、ここから、皇室や伊勢神宮の新嘗祭
(しんじょうさい・にいなめさい・天皇が新穀を天神地祇に供え、みずからも食する
祭儀)などに米や野菜のお供え物の神饌を献上してきたそうです。

 また、西尾家は学問、芸術・芸能への関心が非常に高く、茶道では薮内流を修め、
著名な建築家・武田五一、夭折の天才音楽家・貴志康一、高名な植物学者・牧野
富太郎などとの交流があり、その交流の影響が建物にも随所に反映しています。

 素晴らしいことです。西尾家はこれだけの格式のある、いわゆる上流階級ですが、
当家自身が知識人として、その存在感を遺憾なく発揮し、わが国の近代文化の
深化、発展に尽くされてきたことに深い感銘を覚えました。

 間口二間半もある大きな長屋門を入ると正面に主屋があります。主屋は数奇屋風
の建物であり、玄関、計り部屋、数多くの座敷部屋があります。特に大座敷は4部屋
くらいぶち抜くととんでもない広さになりますし、梁、欄間、床、天井など見事な造りで
あることは、わたしなど建築の素人でもわかります。

 主屋は400年前の江戸時代初期に建てられたものを明治28年に建て替えたもの
ですから、今で114年になります。当家は結構ハイカラで、全面カットガラスの縁側、
タイル貼りの配膳台や大理石の配電盤がありました。また、当時の電話がボックス
ともに残されており、西尾家の電話番号は0001番。ちなみに、あのアサヒビールが
0002番、吹田役場が0003番だそうですから進取の気性が読み取れます。

 ここには、夭折の天才音楽家・貴志康一(1909~1937)が生誕した和室がありま
す。康一の母の実家がこの西尾家だったからです。貴志康一はヴァイオリン演奏、
作曲、指揮でその名を轟かせ、その名声は今にも伝わっています(わたしでも知っ
ているくらいですから)。ボランティアの方の説明によりますと、名器といわれた
ヴァイオリンのストラディヴァリウスを当時の値段で5万円、現在価格では5~6億
円を購入したそうです。

 最も驚いたのは、西尾家には5ヵ所の茶室があることです。主屋に2ヶ所、茶室
「積翠庵」に2ヶ所、離れに1ヶ所。当家の茶道は藪内流ですが、薮内流家元との
交流は極めて濃密であり、家元が茶室の建築や露地・書院庭の築庭を指導。それ
にしても、ここまで茶道に堪能であるとは、数寄者として素晴らしいものであり、上流
階級・裕福な家はこうでなければならないことを示唆しているように感じました

 次に離れを案内してもらいました。離れの建物は、内観・外観とも和風の居住棟と、
外観が和風・内観が洋風とする接客棟の二棟です。接客棟には、ビリヤード室、
応接室、サンルームなどがあり、アール・ヌーヴォー風のステンドグラスをはじめ、
照明器具、家具、床、天井、壁面など近代建築の香りを空間一杯に放っています。

 この離れは、「関西建築界の父」といわれた武田五一(1872~1938)の設計した
ものですから、さすがに見るべきものが数多くあり、飽きがきません。武田五一は、
東京帝大を卒業、京都帝国大学工学部建築学科を創設し、京都府立図書館、円山
公園、京都市役所、日本勧業銀行本店、大阪肥後橋、大阪渡辺橋など多くの歴史
的な建造物を設計しています。

 武田五一はわたしの故郷である備後福山藩(広島県福山市)の出身、ヨーロッパ
留学により、新しいデザインをわが国に紹介した建築家と言われており、建築以外
にも工芸、テキスタイル図案なども手掛けたそうです。

 この他、「日本の植物学の父」と言われた、植物学博士の牧野富太郎(1862~
1957)
も、当家と深い親交があり、“吹田慈姑”(すいたくわい)も牧野博士の命名・
紹介だそうで、庭の畑に今も少し植えられていました。

 このように、西尾家は、著名な建築家、音楽家、学術博士、茶道家元などとの深い
親交を結ぶなど、まさに、文化人としての真価を発揮し、その真髄を現在にも伝えて
きたこと、また、その精神を後世に残そうとする吹田市の対応に、敬意を表したいと
思います。

 近くには、“旧中西家住宅”や“浜屋敷”など貴重な文化財があることを、今回
はじめて知りました。

 それにしても、今回の旧西尾家訪問によって、わたし達の知らない“歴史的文化
財”が、以外や以外、身近に存在することを、あらためて認識した次第です。

 みなさんも、ぜひ身の回りを当たってみられることをお薦めします。

 みなさんはどのようにお考えでしょうか。

次回も
時事エッセー
です

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