“春”…素晴らしき日本の自然に触れよう!
212回目のブログです。
世の中は、真面目に考えれば考えるほど、嫌気がさすほど鬱陶しくなります。
それは、日米安保条約を結び、わが国と最も信頼関係を保持すべきアメリカから
でさえ「日本はバナナ共和国」(統治能力がなく政情不安な小国への卑称)として
鳩山政権に不信感をあらわされたり、“HOHO”(鳩山・小沢・平野・岡田氏の
頭文字)という単語(米俗語で軽蔑を意味)で政界のトップが揶揄されたりしている
始末ですから…。
ましてや、中国や、北朝鮮・韓国、ロシアからはそれ以上に軽くみられており、
これ又、何をか言わんや…。更に国内の政治も経済も教育も、全てが、まさに
閉塞感で一杯という息苦しい状況といえるのではないでしょうか。情けなさもこれ
以上はありません。
こういう時は、歴史に学び、文学に遊び、又、恵まれたわが国の自然に触れる
ことが、今流行りの言葉で言う“癒し”につながるものだと思います。
“時は春”…まず有名な漢詩から行きましょう。
【春 暁】 (孟浩然・唐)
春眠不覺暁 春眠(しゅんみん)暁を覚えず
處處聞啼鳥 処処(しょしょ)啼鳥(ていちょう)を聞く
夜来風雨聲 夜来(やらい)風雨の声あり
花落知多少 花の落つること知りぬ多少
<一般的な大意>
春の眠りは心地よく、うっかり寝過ごし、夜明けに気付かない。
目覚めてみると、ところどころで鳥がさえずっていて天気が良さそうだ。
そういえば、昨夜は風雨の吹き荒れる音がした。
せっかくの花がどれほど落ちたことか。
なかなかリズムのあるいい漢詩であり、わたしは時折、詩吟調に口ずさむことが
ありますが、特に春の目覚めの悪い時に口の端にのせると途端に目がスッキリ
してきます。
この漢詩を、小説「山椒魚」で有名な文豪・井伏鱒二は、こんなふうに訳しています。
ハルノネザメノウツツデ聞ケバ
トリノナクネデ目ガサメマシタ
ヨルノアラシニ雨マジリ
散ッタ木ノ花イカホドバカリ
「厄除け詩集」より
これは、漢詩の訳というよりも、孟浩然の漢詩心を井伏鱒二の詩心として詠んだ
ものと思いますが、それにしても、素晴らしい訳詩ですね。
さて、わが国の四季と言えば、春・夏・秋・冬そして、春はあけぼの~と繋がって
いきます。
【春はあけぼの】 「枕草子」(清少納言・平安中期)
春はあけぼの。やうやう白くなり行く、山ぎは少しあかりて、紫だちたる雲
の細くたなびきたる。
<現代語訳>
春は曙がいい。次第に白んでいくと、山際の空が少し明るくなって、
紫がかった雲が細くたなびいているのがいい。
だいぶ以前、高校生の時「古文」で習ったものですが、「春はあけぼの。~」という
フレーズはいまだに忘れておりません。春の長閑な自然がこの一語に要約されて
いるのは、さすがにわが国の古典、枕草子と言うべきで、この後に、「夏は夜。~」
「秋は夕暮。~」「冬はつとめて。~」とあり、わが自然の四季をこれほど簡潔に
表現した文章はないのではないでしょうか。
漢詩、随筆の次は和歌といきましょう。
春ごとに 野べのけしきの 変わらぬは
おなじ霞みや 立ちかへるらん
藤原隆経(ふじわらのたかつね)
春の夜の 闇にしあれば 匂ひくる
梅よりほかの 花なかりけり
藤原公任(ふじわらのきんとう)
み吉野は 山も霞みて 白雪の
ふりにし里に 春はきにけり
藤原良経(ふじわらのよしつね)
山桜 咲きそめしより 久方の
雲居に見ゆる 滝の白糸
源 俊頼(みなもとのとしより)
これらの和歌に詠われている、春、吉野、山、霞、山桜、野べ、匂ひ、白雪、里、
雲居、滝、白糸、染め…どの言葉も春に因んだものであり、その情景が目の前に
浮かんできそうです。
ではあっても、ウォーキング、ピクニック、小旅行や散策を通じて、実際に自然に
触れるとともに、名所や旧跡を訪ね、わが国のながい歴史の一端にも触れたい
ものです。
特に関西の奈良では「平城遷都1300年祭」が開かれており、復元された
「大極殿」など古都の魅力が今年に凝縮されているそうですから、一度はじっくり
廻りたいと考えています。
冒頭、いろいろ書きましたが、まあ、おたがいに人間であり、悩み多い存在です
が、かの有名な鉄幹の詩でも鑑賞して、元気を出したいものです。
われ男の子 意気の子名の子 つるぎの子
詩の子恋の子 ああもだえの子
与謝野鉄幹(よさのてっかん)
<大意>
わたしは男児の誇りに生きるものであり、意気に感じ、名誉を重んじ、剣を
重んじるものである。しかし、また一面、詩を愛し、恋愛の情を大切にする
人間でもある。ああ、なんと悩み多き人間であろうか。
みなさんはどのようにお考えでしょうか。
次回も
時事エッセー
です
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