“寺田寅彦”に学ぶ!…東日本大震災に思う⑦
270回目のブログです。
“ 今日のみと 思へばながき春の日も 程なく暮るる 心地こそすれ”
(西 行)
いよいよ春も終わりとなりますが、例年であれば、上の和歌にあるような、ある種えもいわれぬ惜別の念に堪えない心境となるのでしょうが、今年は大震災の暗雲が未だ頭上に残ったままの重たい雰囲気ですから、複雑な心境で次の初夏に入ろうとしているように感じられます。
東日本大震災は、原発問題を除けば、間違いなく天災です。天災と言えば、寺田寅彦の“天災は忘れたころにやってくる”という言葉が人口に膾炙(かいしゃ・評判になって知れ渡ること)しており、小学校の教科書にも出ています。
寺田寅彦(明治11年<1878>~昭和10年<1935>)は物理学者ですが、夏目漱石の門下生としても著名であり、漱石作品に登場する人物のモデルとも言われています。数多くの著書がありますが、そのなかでもわたし達一般人に馴染みがあるのは随筆ではないでしょうか。
その随筆のなかで、今、再認識されているのが彼の「天災」に関しての論考であり、特に、昭和9年(1934)に書かれた随筆『天災と国防』(経済往来)は、今回の東日本大震災を予見しているようで、その見識と先見の明に、あらためて驚かざるを得ません。
寺田寅彦は漱石門下ですから、さすがに達意の文章、昭和9年に書かれたとは思えないほどであり、今読んでもさして難しさはなく、以下一部を引用(「 」)します。
災害は必ず生ずるものとして。(…古来、治山治水は政治の基礎!)
「悪い年回りはむしろいつかは回って来るのが自然の鉄則であると覚悟を定めて、良い年回りの間に充分の用意をしておかなければならないということは、実に明白すぎるほど明白なことであるが、またこれほど万人がきれいに忘れがちなこともまれである。少なくも一国の為政の枢機に参与する人々だけは、この健忘症に対する診療を常々怠らないようにしてもらいたいと思う次第である」
日本は地理的に災害国であるとして。(…運命に対処を!)
「日本はその地理的位置がきわめて特殊であるために国際的にも特殊な関係が生じ、いろいろな仮想敵国に対する特殊な防備の必要を生じると同様に、気象学的地球物理学的にもまたきわめて特殊な環境の支配を受けているために、その結果として特殊な天変地異に絶えず脅かされなければならない運命のもとに置かれていることを一日も忘れてはならないはずである」
「地震、津波、台風のごとき、西欧文明諸国の多くの国々にも全然無いとは言われないまでも、頻繁にわが国のように劇甚な災禍を及ぼすことははなはだまれであると言ってもよい」
日本の国民性について。(…試練に耐えよう!)
「わが国のようにこういう災禍の頻繁であるということは一面から見ればわが国の国民性の上に良い影響を及ぼしていることも否定し難いことであって、数千年来の災禍の試練によって、日本国民特有のいろいろな国民性のすぐれた諸相が作り上げられたことも事実である。
文明人と自然の征服について。(…福島原発災害を暗示!)
「ここで一つ考えなければならないことで、しかもいつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である」
「文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しようとする野心を生じた。そうして、重力に逆らい、風圧水力に抗するようないろいろの造営物を作った。そうしてあっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻を破った猛獣の大群のように、自然があばれ出して高楼を倒壊せしめ堤防を崩壊させて人命を危うくし財産を滅ぼす。その災禍を起こさせたもとの起こりは天然に反抗する人間の細工であると言っても不当ではないはずである。災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやが上にも災害を大きくするように努力しているものは誰あろう文明人そのものなのである」
文明の進展と天災について。(…国家としての覚悟が必要だ!)
「二十世紀の現代では日本全体が一つの高等な有機体である。各種の動力を運ぶ電線やパイプやが縦横に交差し、いろいろな交通網がすきまもなく張り渡されているありさまは高等動物の神経や血管と同様である。その神経や血管の一か所に故障が起こればその影響はたちまち全体に波及するであろう。今度の暴風で畿内地方の電信が不通になったために、どれだけの不都合が全国に波及したかを考えてみればこの事は了解されるであろう」
「それで、文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟(ひっきょう)そういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の転覆を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう」
「そうして付け焼き刃の文明に陶酔した人間はもうすっかり天然の支配に成功したとのみ思い上がって所きらわず薄弱な家を立て連ね、そうして枕を高くしてきたるべき審判の日をうかうかと待っていたのではないかという疑いも起こし得られる」
天災と国防について。(…国防も天災も同列だ!)
「国家の安全を脅かす敵国に対する国防策は現に政府当局の間で熱心に研究されているであろうが、ほとんど同じように一国の運命に影響する可能性の豊富な大天災に対する国防策は政府のどこでだれが研究し、いかなる施設を準備しているかはなはだ心もとないありさまである。思うに日本のような特殊な天然の敵を四面に控えた国では、陸軍海軍のほかにもう一つ科学的国防の常備軍を設け、日常の研究と訓練によって非常時に備えるのが当然ではないかと思われる。陸海軍の防備がいかに充分であっても、肝心な戦争の最中に安政程度の大地震や今回の台風あるいはそれ以上のものが軍事に関する首脳の設備に大損害を与えたらいったいどういうことになるであろうか。そういうことはそうめったにないと言って安心していてもよいものであろうか」
「天然の強敵に対して平生から国民一致協力して適当な科学的対策を講ずるのもまた現代にふさわしい大和魂の進化の一相として期待してしかるべきことではないかと思われる」
一読、まことに鋭い指摘に肯かざるを得ません。たしかに、今回の大震災時に尖閣周辺では中国軍関連の蠢動(しゅんどう・うごめき)が伝えられていましたから、寺田寅彦のいう科学的国防常備軍、今流に言えば「危機管理省」「科学防衛軍・隊」を検討しなければなりません。
それにしても、政治が政治として機能していないのが問題ではないでしょうか。例えば、菅直人政権は、未だに、災害基本法にもとづく「災害緊急事態」を発動さえしていないという体たらくであり、まさに、亡国への道をまっしぐらというべきか。
こういう国難に際しては、本来、非常事態宣言が発令され、緊急体制が敷かれるべきですが、如何せん、わが国の憲法には「非常事態規定」がないのです。これではどうしようもなく、あらためて、現憲法が欠陥憲法であることが明白になりました。
憲法のために国民があるのではなく、国民のために憲法があるという常識に、すみやかに還るべきではないでしょうか。
安全な国をつくるためにも、わたし達はわが国の基本について考えていかなければならないと思います。
みなさんはどのようにお考えでしょうか。
次回は
時事エッセー
です
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