“復興への言葉”…メルヘンと恫喝でいいのか!
280回目のブログです。
“ 緑濃き 日かげの山の はるばると おのれまがわず 渡る白鷺 ”
(徽安門院・きあんもんいん・南北朝の歌人)
緑濃く日の光がさす山が、はるばると見渡され、そこに、姿がまぎれることもなくはっきりと飛んでいく白鷺。ああ、なんと清々しいものか…。
山の緑に映える白鷺、空の青に映える白鷺は自然の中で見られる美しい光景ですが、現実の世の中においては、そのように清々しく、孤高然とし、凛とした姿を見ることはそうそうあるものではありません。
ましてや、政治の世界においては、その真逆であり、菅首相などは、白鷺どころか、黒鷺、黒い詐欺師、黒いペテン師と言われても反論できないほどの悲しい状況です。
東日本大震災が発生してすでに100日を越えているのもかかわらず、その復旧・復興への道筋が一向に見えてこないのは、所詮、菅首相をはじめとする内閣の志とレベルの低さにあり、それを如実に示しているのが“言葉”だと考えます。
まず、6月25日、東日本大震災復興構想会議がまとめた「復興への提言」(~悲惨のなかの希望~)を取り上げましょう。前文と結びから。
『破壊は前ぶれもなくやってきた。平成23年(2011)3月11日午後2時46分のこと。大地はゆれ、海はうねり、人々は逃げまどった。地震と津波との二段階にわたる波状攻撃の前に、この国の形状と景観は大きくゆがんだ。そして続けて第三の崩落がこの国を襲う。言うまでもない、原発事故だ。一瞬の恐怖が去った後に、収束の機をもたぬ恐怖が訪れる。かつてない事態の発生だ。かくてこの国の「戦後」をずっと支えていた“何か”が、音をたてて崩れ落ちた。』
この文章は何ですか。「復興への提言」の書き出しがこれですから、メルヘン(童話)かポエム(詩文)、少女小説か三文小説、何とも、どうにも違和感を拭うことはできません。
そもそも、復興への提言は、シリアス(深刻)なものであるべきであり、このようなメルヘンやポエムという情緒的なものからほど遠いものではないでしょうか。
復興会議の委員はわが国で有能・優秀なお方であり、長時間かけてまとめられたご努力にはそれなりの敬意を表しますが、この文章・言葉では、全国民に強く訴える力とか未来に向けた燃えるような情熱を感ずることはできません…まことに残念です。
『では今回の震災における被災者には、果たして何色が印象づけられたであろうか。それはあるいは海岸からおし寄せた濁流うずまくどすぐろい色かもしれぬ。いやそれは津波が引いた後のまちをおおいつくす瓦礫の色かもしれぬ。パニックに陥ることなく黙々とコトに処する被災した人々の姿からは、色味はどうであれ、深い悲しみの色がにじみ出ていた。』
これも、ポエム的感傷論。リアリティのない空虚な文章。現実的政策を提言しなければならないにもかかわらず、えっ、「色」「味」とは開いた口が塞がりません。どんなに好意的にみても、これでは誰も同意できないのではないでしょうか。提言は文学ではない!
『自衛隊をはじめとする全国から集まった人々の献身的な救助活動は、まさにつなぎあい、支えあうことのみごとなまでの実践に他ならなかった。』
これもおかしい。自衛隊は、単なる個々の実践を行ったのではなく、実質的な国防軍として統合的な救援展開を行い、その厳しく辛い任務を粛々と遂行したのではないでしょうか。その意味で、復興会議の提言は、自衛隊をわが国の防衛に必要欠くべからざる存在として、正面からみつめるという真摯な姿勢を欠いていると言わなければなりません。
『あの災時に、次から次へと、いかに世界中からの支援の輪がつながっていったか。われわれはそれを感動を持って受け止めた。』
わたし達国民は、普通の第三者的な感動ではなく、心から感謝の気持ちを持ったのです。
『こうして見出された「希望」は、この国の若い世代に積極的なメッセージとして発信されねばならない。それは復興への参加を通じて、この国に住み続け、この国をよくしようと思える何らかの果実が、若い世代の心のなかに生まれることだ。この国が好きだ、この国と「共生」しようと思ってくれるか否か。復興の先に、若い世代を主体とするこの国の姿を見出したい。』
「復興への提言」の前文と結びには「わが国」「日本」「日本国」という言葉が一回もでてきません。すべて「この国」なのです。異様ですね。委員らのメンタリティにはこの国はあっても日本と言う国はないのです。委員らは、民主党菅政権からの任命ですから菅氏の考え(サヨク市民主義)に則って、国民・領土・主権を包含した「歴史ある日本」よりも単なる唯物としての「この国」を選んだとしか考えられません。
復興会議の委員は15名ですが、もしも、その委員らが日本国を素直に愛しているならば、どうして「日本」という表現にしなかったのでしょうか。彼らの精神こそ“悲惨”そのものであり、15名の委員の見識をあらためて問いたいものです。
また、タイトルのキャッチフレーズである「~悲惨のなかの希望~」がいただけません。上から目線、他人行儀であり、連帯感、紐帯感、今流のことばで言えば“絆”が感じられないのです。
提言の骨子は「増税」「減災」「特区」が3本柱となっていますが、力強さを欠く、変な、軟弱な文言で、はたして真の復興ができるのでしょうか。(ネットで全文が見られますので、ぜひ一度ご覧になってください)
さて次に、7月4日に震災復興担当大臣を辞任した松本龍氏の発言(東北県知事との会見時)を振り返りたいと思います。
『おれ九州の人間だから、東北が、何市がどこの県とかわからんのだ』
『あれが欲しい、これが欲しいは駄目だぞ、知恵を出せということだ。
知恵を出したところは助け、出さない奴は助けない。それぐらいの
気持ちを持って』
『県でコンセンサスを得ろよ。そうしないとわれわれは何もしないぞ。
ちゃんとやれ』
『今、あとから自分(村井知事)入ってきたけど、お客さんが来る時は、
自分が入ってからお客さんを呼べ』
『いいか、長幼の序がわかっている自衛隊(かつて村井知事が所属)なら、
そんなことやるぞ。わかった? しっかりやれよ』
『いまの最後の言葉はオフレコな。いいですか皆さん、いいですか。
書いたら、もうその社は終わりだから』
いやあ、言ってくれましたね。テレビのニュースやワイドショーで何回も取り上げられたので、生の画像を見れば、松本大臣がなぜこのような発言をしたのかが一目瞭然です。要するに、松本大臣は、自身が位の高い存在であるにもかかわらず「大臣」としての最高のもてなしをされなかったので(誤解)、腹が立ち、いわゆる恫喝・暴言・妄言・脅しを行ったにすぎません。
これは、松本氏の育ちとしつけによるものでしょう。大臣になる方は、少なくとも基本的な教養と事物を見通す見識と万難を排する真の勇気を持ち合わせて欲しいと思います。
政治家においては“言葉”は極めて重要であり、いわば精神の芸術でもあります。したがって、真の政治家は、演説に、答弁に、質疑に、会話に、討論に、芸術の花(政治家としての説得力)を開かせようと全力で当たります。
一方、松本大臣の上記の発言からからは、残念ながら、政治家としての真摯な姿勢は微塵も浮かんできません。菅首相と同じように、どうしようもない恥ずべき存在でしょう。
最近の政治に、誠実な言葉、真摯な言葉がなくなりました。菅総理大臣はもとより、内閣各大臣も、そして重要な復興への提言においてもそうですから、民主党は一度顔を洗って出直すべきではないでしょうか。
また、ほとんどのマスコミは、松本龍大臣の恫喝文句「書いたら、もうその社は終わりだから」に怯え、即時報道をしなかったのですから、言論を守ろうとする気概のなさは、菅首相や松本大臣と同じような低レベルだと言わなければなりません。マスコミも大いに反省し、一度顔を洗って出直すべきではないでしょうか。
わたし達国民も、政治家やマスコミの「言葉」に、もっと厳しく当たるべきだと考えます。
みなさんはどのようにお考えでしょうか。
次回は
時事エッセー
です
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コメント
日本から外へ出ると(いわゆる、海外旅行です)、日本の良さが、如実にわかります。
安全、安心、便利、うまい、豊かだ、飢えた人がいない、乞食がいない・・・、いわゆる、かゆいところに、手が届く、という状況に置かれている、現状の日本人であり、本当に、世界一暮らしやすい国、だと、痛感します。そして、そんな日本に暮らせていることに、つくづく、良かった、と、感謝したくなります。悪く言えば、飼い殺しの状態、でもあるのかもしれませんが。
方や、日々報道されるテレビ画面は、腹立たしきこと、満載です。
上記、ご指摘の通り。
だから、どうかしなければならない、ということで、意見をいう人は、五万といますが、では、どうすればいいか、と、本気で動く人がいない。
こんな、やるせなさが、腹立たしきこと、に、結びつくのだ、と、思います
しかし、こういう状況でも、日本はつぶれずに、続いています。ということは、まだまだ、今の日本は、切羽詰まった状況ではないのかもしれない、と、勘ぐってしまいます。現実はしかし、やっぱり、確実にせっぱつまった状態になっているはずなのですが、国民全体が、それに気づかない振り、を、し続けている、それが現状だ、と、思います。
そして、それでもなお、温存し続けるだけの余力が、まだ、残っている、のが日本の現状なのだろう、と思います。
ヨーロッパ先進国の都市の角々には、乞食が健在ですし、
新興国では、日々争いが勃発しています。
それに比べれば、あまりに、平和ボケ、なのでしょう。
今後の日本を考えたときに、これ以上の経済発展は、望むべくもありませんが、が、しかし、現状維持は、できる限り続けてほしい、と、ネガティブな望みしかない、それが、私自身を含めた、一般的な国民の願いなのではないか、と、勘ぐってしまいます。
今、私たち、個人、一人一人にできること、国難を憂えていても、国を動かすことなど、個人の力では、できるべくもないのですから、そこのところを、探求していきたい、と、日々、模索しています。
それには、やはり、目を見開くこと、が、自分の立ち位置を自覚することが重要であろう、と、考えます。
一つの考えとして、日本国民、である前に、世界市民、地球市民である、という自覚が持てれば、知恵が、少しでも生まれやすくなる。安易な考えでしょうか?
勝手な所感、お許しください。
投稿: 奥田 博美 | 2011年7月 8日 (金) 09時28分