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2011年9月23日 (金)

聖徳太子に学ぶ!

 291回目のブログです。

“濁りなく 千代を数へて 澄む水に 光を添ふる 秋の夜の月 ”
平兼盛(平安中期歌人・三十六歌仙)

 永い年月、濁らずにきれいに澄んでいる水の上に、美しい光を添えている秋の月だなあ…。

 これは、平安時代の歌合せにおいて、美しい秋の月を愛でるとともに、時の太政大臣を称賛して、澄んだ水に美しい光を添えていると詠んだものと言われています。

 ひるがえって平成の今日、日本国のリーダーである野田新内閣が、わが国に、わが国民に光を与える存在であってほしいと願うや切なるものがありますが、今、激しい秋雨前線と強烈な台風により列島は大混乱、まさに、前途多難を象徴しているようです。

 現状、わが国は行き場を失い、混迷と不安の坩堝(るつぼ)のなかでもがいているように思えてなりませんが、こんな時こそ、わが国の礎を築きあげた歴史上の大人物に学ぶことが大切だと思い、先日、四天王寺のすぐ近くで催された聖徳太子の勉強会に行ってきました。

  藝林会「第5回学術研究大会」

主 題 :「聖徳太子をめぐる諸問題」
見学会 :四天王寺太子殿
発表討論:
 「国制成立史から見る聖徳太子」同志社大准教授 北康宏氏
 「対外関係史から見る聖徳太子」中央大教授 石井正敏氏
 「仏教文化史から見る聖徳太子」大阪大教授 武田佐知子氏
 「聖徳太子研究の問題点」   駒澤大教授 石井公成氏
司会は皇学館大学長 清水潔氏、京都産大教授 所功氏、
    皇学館大教授 白山芳太郎氏

【聖徳太子】
敏達天皇3年(574)~推古天皇30年(622)
用明天皇の第二皇子
母は穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)
推古天皇のもとで摂政となる
主な事績 ・冠位十二階の制定
     ・十七条憲法の制定
     ・遣隋使派遣

 四天王寺は、推古天皇元年(593)、聖徳太子のご請願により建立された日本最初の官寺であり、本尊は救世観音菩薩(くせかんのんぼさつ)です。別称を金光明四天王大護国寺(こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら)と言いますから、国家護持のための最高位の寺院であることは明白です。

 中心伽藍としては、仁王門、五重塔、金堂、講堂ですが、それらが一直線に並び、周りが回廊となっています。伽藍は残念なことに創建後何度も焼失しており、その都度再建して今日に至っていますが、広大な寺域と伽藍群はそれなりの存在感を示しています。

 わたし達は聖徳太子の御霊をお祀りする聖霊院(太子殿のこと)で勧学部長から説明を受けました。前殿には聖徳太子16歳像・2歳像・四天王、奥殿には49歳像が祀られているため、この太子殿はたしかに「凛」とした雰囲気を漂わせており、1400年前の聖徳太子の御威徳がわが身に伝わってくるような感じを持ちましたが、それは私一人だけではなく、多くの参加者も同じだったと思われます。

聖徳太子が物部氏と蘇我氏の争いにおいて、四天王への誓い(もしも勝たせて頂ければ四天王のための寺塔を建てお祀りするということ)をもとに劣勢から勝利を収め、それが四天王寺建立へとなったと言われています。

    【四天王】 (守護方位)
     持国天    東
     増長天    南
     広目天    西
     多聞天    北

四天王は四方を守る守護神として、現在四天王寺では聖霊殿(太子殿)で祀られていますが、創建当時のように、まさしく言葉通りに寺院の四方にてお祀りしてほしいと思います。何といっても、お寺の別称が「金光明四天王大護国寺ですから。

 と言いますのは、現在のわが国の周辺状況を俯瞰すれば、まるで当時の国際情勢を映しているようで、西からは中国や朝鮮(北&南)が、北からはロシアが、わが国の主権たる領土や利権を虎視眈々と狙っているのが明らかであるからです。

 軟弱で私欲の塊である現在の政治家に期待することは難しく、これは、聖徳太子の御威徳、そして太子を支えた四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)のご加護を心から願わざるを得ません…。

 さて、四天王寺の見学会を終え、歩いて数分、研究発表会場である夕陽丘予備校に到着。夕陽丘予備校は、全国的に名物校長と言われた故白山桂三氏(東京帝大国史卒)が創設、半世紀を超えた歴史ある予備校であり、真の人間教育、真の日本人教育を目指しているユニークな名門予備校です。

 いよいよ4人の先生方の発表が行われます(会場は満席)。私は友人数名と参加したのですが、いずれも一般人であり、はたして理解できるのか不安がありましたが、分かり易い説明で眠気も生じません。…2、3点素人としての感想を記します。

  近年、聖徳太子は存在しなかったとの議論がありますが、これは全くの誤解であり、その論を立てている学者も存在そのものを否定しているのではなく、聖徳太子が神格化されすぎている(実際はそんなことはないが…)と言っているにすぎないと指摘されました。 

最近の教科書などでは聖徳太子のことを厩戸王子(うまやどのおうじ)と表記していますが、これは大問題だと考えます。日本国の基盤確立のために最大級の貢献をされた方に対しては、より美化するのは当たり前のことであり、文部科学省は何をしているのかと言いたい。たとえ聖徳太子という名が没後、全国的に尊崇されて付けられたものだとしても、もう千三百年もその名で崇められてきのですから。

私は、聖徳太子の事績から判断すれば、もっともっと伝説化しても、し過ぎではないと考えます。それほど偉大なことではないでしょうか。

  武田教授は、聖徳太子の像・衣裳・画・包装紙墨書などを全国のお寺から収録し、豊富な画像として示されました。その形や姿にはありとあらゆるバリエーションがありますが、太子信仰がここまで全国に亘っているのかと、ある種の新鮮な驚きを覚えるとともに、認識を改めたところです。

聖徳太子はわが民族の心であり、日本の精神であるとの思いを強くしました。

  推古朝の時の宮殿は小墾田宮(おはりだのみや)と称されていますが、そこでは天皇の下に、左右に2つの庁が置かれ、一つは大兄・皇子、一つは上臣(大臣)、いずれも色は、その下に幄(あく)が左右に置かれ、一つは諸王の座、一つは下臣(大夫)となっていたとのこと。初耳のことばかりで興味津々のものがあります。

現在のわが国の統治機構統治方法にほころびが見えていることは周知のことですが、どうすればいいのかのヒントは歴史に学ぶ他はありません。聖徳太子の時代を参考にすることも必要ではないかと思った次第です。

  推古十五年(607)、わが国の外交の嚆矢(こうし・ものごとの始まり)ともいうべき遣隋使を派遣した時、小野妹子が「国書」を持参。その最初の言葉(隋書にあり)

日出處天子致書日没處天子無恙
日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、
 恙なきや

この時代に、超大国・帝国である隋に対して、堂々とした国書を携えさせた聖徳太子の偉大さをあらためて認識しました。

現在の政治に求められるのは、聖徳太子の「凛」とした姿勢、国を守るという強い意志、物心とも真に豊かな国家を作り上げていこうとする強い精神ではないでしょうか。…そんな感想を持ちました。

 その他、いろいろと学びましたが、やはり、真の学問に心を置かれている学者の説かれることは違いますね。テレビや新聞などで表面的な話しかできない人とは段違いであり、わたし達も本物を求めていく姿勢が必要だと認識しました。

 それにしても、この藝林会主催の聖徳太子に関する学術研究大会は有意義でした。

 みなさんはどのようにお考えでしょうか。

次回は
時事エッセー
です

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