つつじ満開…初夏・庭園の美に触れる!
324回目のブログです。
“偽りの なき世なりせば いかばかり 人の言の葉 嬉しからまし”
(読み人知らず・古今和歌集)
この世の中に、もしも偽りというものがなかったならば、人の優しい言葉がどんなに嬉しく感じられるものだろうか…。
この和歌は男女の仲を結ぶ繊細な心情を詠ったものでしょうが、翻って現在の世の中を見れば、会社における上司と部下の間、政治家と国民の間(マニフェスト)、マスコミ評論家のはやり言葉などなど、無責任な“偽りの言葉”が横溢しすぎているように思えてなりません。
それだけに、誰しも、時には、偽りのない世の中をほんの少しでも味わいたいと思うものです。そんなことをつらつら考えながら、わたしは、このいわゆるGW中に近くの公園に行き、ゆったりと、美しい庭園の美に触れてきました。
(「ゴールデンウイーク」という言葉はいやな言葉です。4/28~5/6の9日間、休んでばかりでわが国の政治と経済は、はたして大丈夫なのか、世界的競争に打ち勝って行けるのでしょうか。祝日の有りようや休日のあり方も、大幅な見直しをしなければならない時であるにもかかわらず、マスコミはGWバンザイの絶賛のみ。わが国のリーダーの視点はかなり狂っているとしか言いようがありません)
さて、その公園は大阪万博公園です。ここは、昭和45年(1970)日本万国博覧会が行われた跡地で、264ha、甲子園球場の65倍という広大な面積を有していますが、その中にある「日本庭園」(26ha)には、今を盛りにと「つつじ」が咲き誇っていました。
つつじは漢字では「躑躅」和名はオオムラサキ、4月中旬から5月上旬に咲きます。万博公園の日本庭園にはつつじヶ丘の名称があるように、丘全体がつつじに覆われている見事な風景があり、目の保養この上なく、久しぶりにつつじを満喫できました。主な種類は次の通りです。
クルメツツジ(久留米躑躅)
ミツバツツジ(三葉躑躅)
ドウダンツツジ(灯台躑躅・満天星)
モチツツジ(黐躑躅・餅躑躅)
ヒラドツツジ(平戸躑躅)
キリシマツツジ(霧島躑躅)
「つつじ」は、古より、わが国民にひろく愛された花であり、和歌や俳句に詠われており、そのうちから一部とりあげてみます。
“風速の 美穂の浦みの 白つつじ 見れどもさぶし 亡き人思へば”
(河辺宮人・万葉集・短歌)
“もの思はず、道行く行くも、
青山を、振り放(さ)け見れば、
つつじ花、にほえ娘子(をとめ)、
桜花、栄え娘子、
汝(な)れをぞも、我れに寄すといふ、
我れをぞも、汝れに寄すといふ、
汝はいかに思ふや、
思へこそ、年の八年(やとせ)を、
切り髪の、よち子を過ぎ、
橘の、ほつ枝(え)をすぐり、
この川の、下にも長く、汝が心待て”
(柿本人麻呂・万葉集・長歌)
(物思いせずに道を歩いて、草木の繁った山を仰いで見ると、そこに咲いているツツジのようにきれいな君、桜のように美しい盛りの君。(花たちは)君が私に心を寄せているって言っているようです。私も君に心を寄せているっていっているようです。君はどう思う? 思えば切り髪だった小さな頃から橘のほつ枝(木の上の方の枝のこと)に届くように大きくなるまで8年も、この川のように心に長く君の心が私の方に寄せるのを待っているんです)
さすがに万葉集。短歌、長歌、どれをとっても、自然に咲いているであろうつつじの花と人との優しく豊かな触れあいのなかで、おのれの心情(こころ)をおおらかに吐露しているように感じられます。
それでは、万葉以後の有名な歌人、俳人のなかから私の好きな和歌や俳句をピックアップしてみましょう。
“岩つつじ 折りもてぞ見るせこが着し 紅染めの 色に似たれば”
(和泉式部・平安中期)
“つつじ咲く 山の岩陰夕映えて 小倉はよその 名のみなりけり”
(西行・平安末期)
“さし出でて 池の上に咲く躑躅の花 水に映りて 深き紅”
(若山牧水・明治18-昭和3)
“つつじ生けて その陰に干鱈 さく女”
(松尾芭蕉・江戸前期)
“香具山に 赤ひもの干す つつじ哉”
(横井也有・江戸中期)
“近道へ 出てうれし野の つつじ哉”
(与謝蕪村・江戸中期)
“百両の 石にもまけぬ つつじ哉”
(小林一茶・江戸後期)
“映りたる つつじに緋鯉 現れし”
(高浜虚子・明治7-昭和34)
つつじ、躑躅…この花はいわゆる高貴でもなく下司でもなく、きわめて一般的な、櫻や紅葉に次ぐ国民花と言うべきかもしれません。櫻の後には「つつじ」、わたし達は、四季折々の花に恵まれた我が国土に感謝するとともに、その美しさ、素晴らしさを和歌や俳句に詠い、歴史に残してくれた偉大な先人にも深い感謝の念を懐かねばならないと思います。
近年、ややもすると国土や歴史を軽んじ、否定し、歪曲と自虐に価値を置く倒錯したリベラルイデオロギーがわが国を覆う風潮がありますが、これではわが国は決して良くなりません。今、わが国は、誰が見ても、悪化の一途を辿っていますが、その原因の大きなひとつに、歴史の軽視と自虐の思想をあげ得るのではないでしょうか。
覚醒あるのみ!…満開のつつじを見、和歌・俳句を鑑賞しながら感じたことです。
みなさんはどのようにお考えでしょうか。
次回も
時事エッセー
です。
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コメント
拝読しました!
投稿: 横川隆一 | 2012年5月11日 (金) 22時40分
拝読!
投稿: 横川隆一 | 2012年5月11日 (金) 22時39分
拝読!
投稿: 横川隆一 | 2012年5月11日 (金) 22時38分
拝読!
投稿: 横川隆一 | 2012年5月11日 (金) 22時35分
現在の世界は、過不足なく成り立っている。
我々は、五感を使ってその事実を確かめることができる。
矛盾があれば、事実関係を調べることができる。
過去や未来の構文を使えば、同様にして過去や未来の過不足ない世界を頭の中で描くことができる。
過去と未来の感覚は得られないが、考えとしては成り立たせることができる。
矛盾があれば、訂正できる。矛盾を訂正しなければ、空論・空想となる。
つじつまの合う夢か、それとも、つじつまの合わない夢か。
辻褄のことは考えないで、ただ、自分にとって望ましいか、望ましくないかを判断する。
これが、夢をみた選挙民は阿呆か、利口かの分かれ目になる。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/
投稿: noga | 2012年5月11日 (金) 08時41分