死刑制度は存続せよ!…死刑執行に思う
337回目のブログです。
“星多み 晴れたる空は色濃くて 吹くとしもなく 風ぞ涼しき”
藤原為子(鎌倉時代歌人・風雅和歌集)
星が多い晴れた夜空は、ことのほか藍色が濃くて、吹くというほどでもない風が実に涼しく感じられるものだなあ…。
この夏は酷暑、熱暑、毎日クタクタです。和歌にあるように、微風でさえ、ところさえ得れば十分爽涼な夏の夜なのでしょうが、そんな居所もなく、世の中も落ち着かない状況ですので、なかなか真の「涼」に行き当たることが出来ません。
■ 2人の死刑執行=短大生焼殺の服部死刑囚ら
―民主政権3度目・法務省
法務省は3日、静岡県三島市で女子短大生に火を付け殺害した服部純也死刑囚ら2人の刑を執行したと発表した。民主党政権下で3度目、滝実法相下では初めて。
(8月3日 時事通信一部抜粋)
この服部死刑囚の犯した犯罪は、おぞましいほど極悪非道と言えるでしょう。アルバイト先から自転車で帰宅途中の面識の無い女子短大生(19歳)を見かけ、誘いの声をかけたが、断られたため自分のワゴン車に押し込み強姦。午前2時半ごろまでの間、三島市などを車で連れ回して逮捕・監禁したうえ、市道で、短大生に灯油をかけてライターで火をつけ、焼死させたというものです(仮釈放中)。
滝実法相は、民主党政権3年間で7人目(異常!)の法相として、一応、法に基づいて死刑を執行。未執行の死刑確定囚はまだ130人もいます。因みに、3年間のこれまでの法相は、千葉景子・柳田稔・仙谷由人・江田五月・平岡秀夫・小川敏夫の各氏ですが、どの人も胡散臭い問題人物であることは明白です。
しかし、滝実法務大臣はマスコミや死刑反対論者に与せず。これに対して、日弁連やアムネスティや社民党などが反対声明を出しました。これについて吟味していきましょう。
社民党福島みずほ党首は「国会会期中の異例な執行である。わが国は国連の死刑廃止条約を批准していない。死刑制度は存廃や刑罰のあり方の議論をつくすまで死刑執行を停止すべきである」と抗議談話で述べています。
わたしにはよく理解できません。なぜ国会会期中に“法の執行”を中止しなければならないのでしょうか。こんなことをすべての法律に広げれば、わが国のすべての活動がストップするのは明々白々、まさに、寝ぼけた発言と言わざるを得ません。
死刑の存廃は各国の専権事項であり、わが国では、国民の80数%が死刑存続を支持していることを基本的に認識すべきです。この割合は年々増えていますが、近年の凶悪事件続出に起因するものでしょう。
また、議論を尽くすまで法の執行を中止せよとはいかにも面妖です。普通の日本人的感覚であれば、議論が尽きるまでは現行法で粛々とやるべきではないのでしょうか。(ちなみに、福島党首は法の精神を十分理解しているはずの弁護士ですが、いやはや…)
次に、アムネスティ(死刑廃止・人権擁護・難民救済などを支援する非政府組織(NGO))は「死刑廃止は世界の趨勢。冤罪の危険性。死刑に犯罪の抑止効果はない。死刑は国家の暴力だ」と言う理由で死刑執行に抗議声明を出しました。
いかにももっともらしい理由ですが、死刑廃止が世界の趨勢でないことははっきりしており、各国それぞれ独自に対応、死刑復活を検討している国もあります。冤罪の危険性については、それがゼロのところで執行すれば良いだけのこと。
死刑の犯罪抑止効果は、無いと言う学者も一部いますが、実証データをもって、あると言う学者も多数いますから、どちらに信頼性が高いかということです。わたしは、抑止効果があるという学者のデータに信頼を置きます。死刑は単純な国家暴力ではなく、国民を代表した国家権力による犯罪者への極限の懲罰であると考えればいいのではないでしょうか。
日本弁護士連合会(山岸賢司会長)は8月3日の声明で「死刑の廃止は国際的な趨勢である。死刑を停止してその存廃を広く議論すべきだ」と述べています。
またまた、世界の趨勢です。わが国上層部のインテリは、ややもすると、自分の都合のいい時だけ「世界の趨勢」という言葉を祭り上げ、それが清く正しく美しい存在だと錯覚させようとすることが多々ありますから、用心に越したことはありません。世界の趨勢というのは真っ赤な嘘です。
こういうシリアスな問題は、外国がどうとか、先進国がどうとか、ましてや最近喧しいアジアがどうだからとかいうことではなく、あくまでもわが国の実情と民心に随うべきでしょう。
日弁連ともあろうものが、法律の執行を停止して、議論をせよと言うのは、あまりにも浅はかであり、議論はすれども、結論が出るまでは現行法律は執行するのが当たり前ではないのでしょうか。社民党も日弁連も法の精神を尊重すべきです。
日弁連で思い出したことがあります。元日弁連副会長の岡村勲弁護士はもともと死刑廃止論者でしたが、愛する夫人が、自宅を訪れた男にナイフで殺害され、犯罪被害者になってはじめて司法と被害者の距離を実感し、死刑賛成論者に転換したのです。ヒトの痛みを分かろうとしない司法の在り方に、自分の経歴と体験にもとづいて警鐘をならしています。
日弁連や社民党のような死刑廃止論者は、加害者の人権を守れと主張しますが、被害者側の人権(被害者本人とそのご家族など)はどう扱ってもいいと主張するのでしょうか。それは本末転倒であり、わが国には因果応報、勧善懲悪というシンプルな価値観もあることを認識しなければなりません。
ここで、もうひとつ注目してほしいのは、わが国の殺人発生率(100,000人あたり)が世界最低レベルだということです。アメリカの1/10、フィンランドの1/5、韓国の1/3、スエーデン・ドイツ・フランスの1/2。こんな実態でも現行の死刑制度をなくせと主張するのでしょうか。良い制度は積極的に温存すべきだと思います。
さいごに、私の考えは次の通りです。
① 死刑制度は、たとえ国連や諸外国の人権団体の突き上げがあろうとも、わが国の安寧のために堅持し、死刑の執行は犯罪抑止の効果を高めるためにも公表すべきである。
② 国民意識(民心)からも、死刑廃止は、もはや論ずべき課題とは言えない。
③ 現実の社会については、安っぽいヒューマニズムよりも、冷徹な目でみなければならない。
④ 現在の刑事罰は軽すぎる。もっと2段階くらい強化することにより、緊張感ある、凛とした社会を志向すべきである。(現状では、よほどのことがない限り、2人以上の殺人でないと死刑にならないが、たとえ1人を殺しても、死刑にすべきではないだろうか!)
みなさんはどのようにお考えでしょうか。
次回は
時事エッセー
です。
| 固定リンク
コメント
①日ごろ弱者弱者という福島氏などが、最も弱者である殺されたひとに反する行動をとるのはどうしても理解できない
②仕事上から、本来中立的立場であるべき弁護士会が加害者の味方では自己矛盾である 被害者の遺族が民事裁判をおこすとき誰に依頼したらよいのか
③死刑は抑止力があると思う
④刑罰は教育的効果の側面もあるが、「目には目を」の仕返しの側面もある 公的な刑罰がなければあだうちの世界になる
投稿: 川口宏和 | 2012年8月10日 (金) 09時48分