千年猛暑!…暑い夏に思う
390回目のブログです。
“川風の 涼しくもあるか 打ちよする 波とともにや 秋は立つらん”
紀貫之(きのつらゆき・古今和歌集)
川風が涼しく感じられることよ。その風に吹かれて打ち寄せる波とともに秋は立つのだろうか…。(立秋の日、京の都を流れる鴨川の河原を散策して詠んだ歌)
古の都で、紀貫之が上の和歌を即興で詠んだその年の立秋の日は、そぞろ涼しい秋風の気配を示していたのでしょう。それに引きかえ、平成25年の今年は、立秋はとっくに過ぎたというのに、暑さも尋常ではなく、思考力もほとんど湧いてこない状況が続いています。
今週は連日の猛暑日。猛暑日とは一日の最高気温が35℃以上を言いますが、小宅の2階では早朝でも32~34℃ですから、日中のうだるような暑さに辟易の状況が続いています。「猛暑」と同意語に「酷暑」「酷熱」「炎暑」「炎熱」「極暑」「激暑」「大暑」「厳暑」があり、どの言葉を使っても、今年の厳しい暑さを表すのに違和感はありません。
今週の月曜日、12日には、高知県の四万十市で、41℃という国内最高温度を記録更新しました。埼玉県熊谷市とか群馬県館林市などではなく、まさか四万十川ではと吃驚しているところです。
気象学的には、太平洋高気圧とチベット高気圧がWで重なったのが原因だそうです。こんな現象が生じるのは、地球が温暖化しているためなのかと早合点しそうですが、英エコノミスト誌によれば、地球温暖化が停滞しているデータを紹介しています。地球が、温暖化しているのか、寒冷化しているのかの論争は続いていますが、明確な結論はでていないことを認識する必要があるでしょう。(環境問題には政治的立場や利権的立場が巧妙に入り込んでおり、冷静な学問的議論のみを吸い上げるべきだと考えます)
「千年猛暑」という言葉を使ったのは気象予報士の森田正光氏ですが、今からおよそ1000年前の平安時代の夏もたびたび猛暑に悩まされた年があったそうです。具体的に平安の何年のことを指しているのかという点で実証的ではありませんが、そんなことはどうでもよく、言葉の綾として「千年猛暑」はまことに身に迫る新鮮な素晴らしい言葉ではないでしょうか。
平安、鎌倉の時代は、世界的な中世温暖期にあたっており、高温の夏を如何に過ごすかが大きなテーマでもありました。
かの吉田兼好もそれに触れています。兼好は、日本三大随筆の作者の一人として教科書にも載る歴史上の有名人ですが、ちなみに、日本三大随筆は次の通りです。
・「枕草子」 清少納言(平安時代)
・「方丈記」 鴨 長明(鎌倉時代)
・「徒然草」 吉田兼好(鎌倉~南北朝)
『徒然草』の序段にある「つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ」は、わたし達も記憶にあるところですが、55段に有名な一節があります。
「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比(ころ)わろき住居は、堪え難き事なり。
深き水は、涼しげなし。浅くて流れたる、遥かに涼し。細かなる物を見るに、遣戸(やりど)は、蔀(しとみ)の間よりも明し。天井の高きは、冬寒く、燈(ともしび)暗し。造作は、用なき所を作りたる、見るも面白く、万の用にも立ちてよしとぞ、人の定め合ひ侍りし。」
[現代語訳]
家の作り・構造は、夏向けを基本とするのが良い。冬はどんな場所にも住むことができる。しかし、夏の暑い時期は、暑さを凌げない悪い住居に住むのは耐えがたいことである。
(庭に作る小川や池にしても)深い流れは、淀んでいて涼しげがない。浅くサラサラと流れる様子が涼しげなのである。室内の小さなものを見る時には、扉を押し上げて開く窓(蔀)より、両開きの窓(遣戸)の方が明るくて良い。天井が高いと、冬は寒くて、夜はともしびの光が届きにくくて暗くなる。家の普請・作りは、(当面は)役に立たない場所を作ったりするほうが、見た目にも面白いし、何かのときに色々と役に立って良いと、人々が話し合っていたよ。
日本家屋は夏向きに建てられていると聞いていますが、当時は、当然空調の冷房もなく、自然のありようを素直に受け止め、最大限の対応をしたものと思われます。
これだけの酷暑の日が続きますと、現代人といえども、現代流の対応が必要になってくるでしょう。都市計画、植栽、グリーンカーテン、断熱建材、ファッションなど、柔軟な対応策を講じることも、歴史に学ぶ知恵かも知れません。
そうは言っても、現代社会では、産業上においても、生活上においても「電力」を無視、軽視することはできません。電力の安定供給があればこそ、戦後の日本がここまで復興してきました。今、原発即時撤廃、不足ならば韓国から購入すればいいではないかなどという無責任な議論がありますが、折角デフレを脱却し経済復活を成し遂げようとする極めて大切な時に、こんなイデオロギッシュな、ためにする議論は、断固として排除しなければなりません。
電力が不足すれば隣国の朝鮮韓国から分けてもらえばいいではないかという考えが一部にありますが、今、韓国ではブラックアウト(大停電)が真剣に心配されている極めて厳しい状況であることや、日韓の歴史的対立が存在することを厳しく認識する必要があるのではないでしょうか。甘すぎる!
エネルギーは他国に頼るのではなく、できるだけ自国で賄う方向こそ大切であり、ましてや、中国や、韓国に頼るなんてことはあってはならないこと、これは歴史が証明しているではありませんか。
電力問題は、原発は稼働できるものは速やかに稼働させつつ、綜合的に、長期的に、冷静に、科学的に検討し、真の意味で政治的に結論を得るべきものだと考えます。
まあ、それにしても暑いですね。“心頭滅却すれば、火もまた涼し”(杜荀鶴・晩唐の詩人)という有名な格言もありますが、なかなかそんな境地に至ることはできません。せいぜい、熱中症にかからないように気をつけたいものです。
今、甲子園球児が高校野球に熱戦を繰り広げています。異常天気ですから、試合途中に「給水タイム」を設けてはいかがでしょうか。選手も、観客も一息入れることが事故を防ぐことにつながると思えるのですが…。
とにかく、何とか暑い夏を乗り切りたいものです。
みなさんはどのようにお考えでしょうか。
次回も
時事エッセー
です。
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