「新年」…あらたな自覚のとき!
410回目のブログです。
(祝日の美しい風景・熊本県菊陽町の鉄砲小路)
“あらましも 昨日に今日は かはるかな 思ひ定めぬ世にし住まへば”
吉田兼好(鎌倉末期~南北朝、遁世者・随筆家)
前々から予定していたことも、昨日と今日では変わるものだなあ、どうも決心がつかず思い通りにいかない日々を送っていれば…。
これは、古典中の古典、わが国における三大随筆家と言われる吉田兼好の「徒然草」189段のことを歌に詠んだものです。
[古文]『今日はその事をなさんと思へど、あらぬ急ぎ先づ出で来て紛れ暮し、待つ人は障りありて、頼めぬ人は来たり。頼みたる方の事は違ひて、思ひ寄らぬ道ばかりは叶ひぬ。煩はしかりつる事はことなくて、易かるべき事はいと心苦し。日々に過ぎ行くさま、予て(かねて)思ひつるには似ず。一年の中もかくの如し。一生の間もしかなり。予てのあらまし、皆違ひ行くかと思ふに、おのづから、違はぬ事もあれば、いよいよ、物は定め難し。不定と心得ぬるのみ、実(まこと)にて違はず』
[現代語訳]
“今日はあの事をやろうと考えていたら、思わぬ急用が出来てしまいそれに紛れて時間を過ごし、待っていた人は用事で来れなくなり、期待していない人が来たりもする。期待していた方面は駄目になり、思いがけない方面の事柄だけが思い通りになってしまったりもする。面倒だと思ってきたことは何でもなくて、簡単に終わるはずだった事には苦労する。一年というのはこんなものだ。一生という時間もこんな風に過ぎていくだろう。
かねてからの予定は、全て計画と食い違ってしまうかと思えば、たまには予定通りに行く事もあるから、いよいよ物事というのは定めにくいものだ。予定なんて不定(未定)と考えていれば、実際の現実と大きく異なることはない”
新年があけました。
みなさまは正月をどのように過ごしておられますか。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
さて、今年の暦を見てみましょう。
平成26年 (年号)
皇紀2674年(神武天皇ご即位を紀元・BC660)
午 (十二支、うま)
甲午 (十干・十二支、きのえうま)
西暦2014年(キリスト生誕を紀元)
今年は、アベノミクスに端を発した経済活性化への新しい動きが一段と活発化するとともに、昨年末の英霊への参拝を果した安倍総理の自信に溢れた自覚ある外交政策がいよいよ真の自立へと動き出す、厳しくも明るい年になることをぜひ期待したいと思います。
ところで、TV人気ドラマ「相棒」の決めゼリフ“ぼくの悪いくせ!”ではありませんが、わたし達は、もう“国民の悪いくせ!”を直さなければなりません。
その悪いくせとは、何でもかんでも、政治、総理大臣、政府に期待し、良き事はすべて天から自動的に降ってくるものと考えていること、そして悪き事は、これまた政治、総理大臣、政府が悪政を敷いたからだと考えていること、すなわち、すべてを他人にまかせ、自らは責任を回避しようとしていることなのです。
たしかに、兼好法師ではありませんが、世の中はなかなか上手くいかないもの。きちっと予定していたことも、不定あるいは未定となることが多いのは世の常かも知れません。 しかし、わたし達は、他に責任を追いやり、手をこまねいてよいわけではありません。
今、平成26年(2014)が始まったばかりです。国民一人ひとりが自分自身を、より高めるために、この新年こそが新たな自覚の時であることを心に刻むべきではないでしょうか。
ここに、碩学・安岡正篤先生の言葉を掲げます。
“年頭自警”
一、年頭まず自ら意気を新たにすべし
二、年頭古き悔恨を棄つべし
三、年頭決然滞事を一掃すべし
四、年頭新たに一善事を発願すべし
五、年頭新たに一佳書を読み始むべし
『安岡正篤一日一言』
「自警」とは、自ら戒め慎むこと、すなわち自戒のことを指します。「決然」はきっぱりと決心すること。「発願」は誓願のことであり、悟りを求める心や、人々を救おうという心を起こすことです。
安岡正篤氏は「終戦の詔書」や「平成」の元号に関わったという説もあるほど、昭和を代表する陽明学者であり思想家でもあります。
その安岡先生が、わたしたち一人一人に対して、年初には五ヶ条の自警をせよ、そして今年一年を積極的に生きていけと諭されているのですから、わたし達も、あらたな自覚を心に刻むとともに、子供のころ書初めをしたように、机上にそれを書きだしておくべきではないでしょうか。たとえそれが、一ヶ条であったとしても。
そうして、あらたな自覚を持てば、おそらくは、清々しい日常を過ごすことができるようになるのかも知れません。
みなさんはどのようにお考えでしょうか。
次回も
時事エッセー
です
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