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2014年1月24日 (金)

「永遠の0」…この素晴らしき映画を鑑賞する!

 413回目のブログです。

“濁りなき 亀井の水を むすびあげて 心の塵を すすぎつるかな”
藤原彰子(一条天皇の皇后・新古今和歌集)

 濁りの無い四天王寺の亀井の水(霊水)を手にすくいあげて飲んで、心のけがれを洗い清めたことだ…。

 大方の日本人は、昨年の大晦日に一年間積もり積もった煩悩の数々を、一応洗い流し、この平成26年の元旦からは清らかな心で、ものごとに従事しようと誓ったはずです。…がしかし、なかなか心の塵は消え去らず、減るどころか増えるばかりで、何とも悩ましいのではないでしょうか。

 それに加えて、現在の政治の指導者や社会のリーダーが、わが国の歴史、特に近現代史を直視せず、確固とした自覚表現もなく、周辺各国(中・北・韓・露・米など)に怯え、硬直した戦後イデオロギーに染まりきっている姿に、心のモヤモヤが更にプラスされてきますので、なかなか清らかな精神に至ることはできません。

 そうした折でもあり、先日、映画「永遠の0」を鑑賞しました。久しぶりのスクリーン(銀幕)でしたが、鑑賞に堪えうる素晴らしい映画だと思います。

  20140120

  映画『永遠の0』の原作は百田尚樹氏の小説です。昨年12月には300万部を超え、平成最大の超ベストセラー作品となっています。そして注目に値するのは、若い世代から中年世代まで、男女の別なく、万遍なく読まれていることであり、まさに真の国民文学というべき存在となっています。

 ゼロ戦は、日本人がつくりだした世界的に最も優秀な戦闘機であり、その姿が美しいことでも有名です。皇紀2600年(昭和15年)採用されたことから、00に因んで、零式艦上戦闘機と呼ばれますが、通称「ゼロ戦」と親しまれています。

 あらすじは、ゼロ戦のパイロットであった祖父・宮部久蔵(主人公)が如何なる人物であったかを、若い世代に属する孫が訪ね歩く過程を描きながら、真珠湾攻撃・ゼロ戦初陣・ミッドウエイ・ラバウル・特攻でのゼロ戦の栄光と悲劇、それをめぐっての人間愛と葛藤を、愛情と尊敬をこめて物語っていきます。

 主人公・宮部久蔵は、内地に残した妻や娘のために絶対に死なないとの信念のもと、その天才的な技量を駆使し、被弾を避けたために、海軍一の臆病者と罵られていました。にもかかわらず、部下にも、操縦技術を教えつつも、家族のために絶対死に急ぐなと諭していたのです。

 その宮部が、深く思うところあり、終戦直前に特攻を志願し、鹿屋飛行場から出撃、米空母タイコンデロガに突入し、散華しました。享年26歳でした。

 映画館のポスターには“邦画/ヒューマンストーリー”として分類されていましたが、どうも、これには違和感があります。最近のわが国では、何でもすぐに、ヒューマンとか平和とかにむすびつけ、本来持つ言葉の意味と重みを忘れる傾向にあります。この映画・小説を単なるヒューマンストーリーと受けとめたのでは作者の百田氏の意に添わないと考えます。

 作者は、特攻を否定しながら、特攻に志願する宮部久蔵の精神のなかに、一切のイデオロギー的な思想を抜きにして、日本人とは何かを語ろうとしています。次々と飛行機、艦船、乗組員を失っても、祖国日本のために、愛する家族のために、己の命を犠牲にしても戦うのだという崇高な思いが特攻を生んだのだ、まさにあの忠臣蔵の志士のように…

 これに対して、左翼で有名なアニメ監督の宮崎駿氏は「ウソ八百で神話を捏造するバカがいっぱい」と映画「永遠の0」をこき下ろしています。このあまりにも浅薄皮相で品の無い感情的な罵倒にサヨクの真骨頂を見ますが、よくよく考えていただきたいものです。

映画館ではみなさん極めて厳粛に鑑賞していましたし、12月21日の放映開始から今も、毎週毎週、ダントツの観客数を誇っています。また何よりも、この分厚い小説が300万部超も読まれている事実に素直に瞠目(どうもく・目をみはること)してほしいと思います。これが、普通の日本人ではないのでしょうか。

 ここで、作者・百田尚樹氏は何を語ろうとしているのかを、私なりにまとめてみたいと思います。

  戦争のことを知りたいと思うきっかけが「永遠の0」(小説/映画)だったという若者が一人でも出てほしい。

  若い世代は近現代史を修学していない。単に「戦争は悪、平和は善」と安直に捉えるべきではなく、たとえば、特攻と自爆テロを同一視する現代マスコミや若者の“無知”を指摘しておきたい。明治以来のわが国の歩んできた歴史を学べば、こんなことはすぐ理解できることだ。

  歴史は物語であり、戦争も物語である。歴史を今の浅薄なイデオロギー的価値基準で断罪するのではなく、愛情をもって接すべきであろう。歴史に刻まれた事実は事実として、わたし達日本国民は「栄光の歴史には誇りを、悲劇の歴史には同情を」の人間性豊かな姿勢で臨むべきではないだろうか。

  あの大東亜戦争(第2次世界大戦)は確かに厳しい悲劇であったけれども、理想への戦いでもあった。散華していった英霊の精神は残された国民の心に引き継がれなければならないのである。歴史は過去から現代そして未来へと続いていくものという基本的認識を持たねばならず、その意味で、靖国への参拝は、英霊への鎮魂の祈りとして行われるものであり、非人間的なイデオロギーによって禁じられるべきものでは決してありえない。

  わが国は、今、金が全ての世の中、領土/領海・主権など、まさに累卵の危うき(きわめて不安定で危険な状態にあること)状態にあり、予断を許さない。こんな国のありさまを尊い命を犠牲にされた英霊に見せ続けるわけにいくまい。わたし達日本人の覚悟、民族としての意識が問われているのではないだろうか。

 わたし達は、日常の世俗のなかで、塵にまみれて生活をしていますが、冒頭に掲げた和歌にあるように、心の塵を洗うためにも、時には、自分の心に響く映画を鑑賞することも必要だろうと思います。

『永遠の0』の映画、小説を薦めます。

 みなさんはどのようにお考えでしょうか。

次回も
時事エッセー
です

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コメント

 優れた小説を映画化するとストーリの解説場面など冗長なカットが増えがちだが、『永遠の0』の場合は小説を読んでいない人であっても製作者や出演者の思いが真摯に伝わる作品だと思う。館内のあちこちで嗚咽が漏れ聞こえたが、この嗚咽はアメリカへの怒りでもなければ戦争への怒りでもない。観客は時代がもたらした必然に翻弄されながらも必死に生き抜いた日本人の物語に涙したのである。                 この作品に対して映画監督の宮崎駿や井筒和幸らが毒舌を弄しているが、彼らは今までも同じ郷土、国家に生まれた人間なら普通に育む郷土愛や祖国愛をもった人、またそれを描いた作品を意図的に排し憎んできたことで知られている。要するに二人は自由な日本で映画を作り、マスコミで自由に発言する場を得ながら、その実、自身の信じる特定のイデオロギーに支配された社会を好むだけでなく、それに反する作品を完璧に社会から排斥したい(焚書坑儒)という反自由主義的性向を強く持っている。彼らは過去にも自分の思想に合わない他人の作品や小説を声高に批判しながらそれをきちんと見てもいないし読んでもいなかったことで逆批判を浴びている。            さらに彼らの批判が感情的発言に終始している裏には『永遠の0』が大当たりしていることへの同業者としての嫉妬心、もう一つは、「戦後60年もたってもまだこんな映画が好きな日本人がいるなんて・・だから日本人はダメなんだ。」という左翼知識人特有の大衆を蔑視した前衛思想(エリート意識)が隠れていることを指摘しておきたい。

投稿: 齋藤仁 | 2014年1月24日 (金) 08時30分

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