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2014年5月 2日 (金)

「職業意識」…担任教諭の入学式欠席問題を考える!

 427回目のブログです。

“みがかずば 玉もかがみも なにかせん 学びの道も かくこそありけれ”
                 昭憲皇太后
(明治天皇の皇后)

 磨くことをしなければ、玉といい鏡といっても、何の役にたつでしょうか。人を磨くための学びの道というのも、それと同じことです…。

 この和歌は明治11年、東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)が開校した際、昭憲皇太后より下賜された御歌であり、日本最初の校歌と言われています。

 明治以来、わが国は教育に国の将来を託し、その充実に力を注いできました。特に女子教育には明治天皇皇后(昭憲皇太后)のご尽力は並々ならぬものであり、明治・大正・昭和の大いなる発展につながっています。

 ところが、最近の教育事情は従来とは異なり混沌とした様相を示しているように見受けられます。先日、担任教諭が入学式を欠席した問題が広く物議を醸し、教諭の職業観に焦点が当てられました。

  担任、息子の入学式へ…高校教諭勤務先を欠席、
               教育長が異例の注意

県西部の県立高校で50代の女性教諭が長男が通う別の高校の入学式に出席するため、担任を務める1年生の入学式を欠席していたことが分かった。新入生の保護者らは「今の教員は教え子より息子の入学式が大切なのか」と困惑している。
関根県教育長は県立高校の校長会で「担任がいないことに気付いた新入生や保護者から心配、不安の声が上がった」と、この事実を報告した上で「生徒が安心して高校生活をスタートできる体制づくりと心配りに努めてほしい」と異例の“注意”を促した。
   
          
    2014/4/11埼玉新聞一部抜粋)

 最近のニュースを見て痛感することは、年々、時代を経るに従い職業意識が低下、職業倫理が希薄化しているのではないかと思われることです。

これは外国の例ですが、連日テレビで報道されている、隣国・韓国の沈没したフェリー「セウォル号」の船長の行動です。乗客を置き去りにして、真っ先に逃げ出すことは、船長の職務を放棄したことを示しており、世界の人々も呆気にとられています。韓国には、反日を国是とするような方向違いの政策をとるのではなく、国民を助け合う社会思潮の醸成にじっくりと努めてもらいたいものです。

わが国では、こんな職業倫理感ゼロの無責任な船長は皆無であると思いますが、近年、わたし達国民の意識が大陸化、半島化しているとの指摘もあり、果して今後はどうでしょうか。

 たしかに、このような出鱈目な船長はわが国にはいないと思いますが、あらゆる分野で、職業意識が低下し職業倫理の希薄な人間が増えているのは間違いなく、決して他国を容易に憐れむことは慎まねばなりません。

学問の世界ではSTAP細胞の小保方問題がそうであり、政治家では原発事故による放射線被爆を恐れて東北の選挙区に長期にわたり帰らなかった小沢一郎氏の例などもそうではないでしょうか。小沢一郎氏など、危機における政治家の役割を全く認識しておらず、これは職業倫理感の極めて薄いことを示しており、その意味で、本来、政治家であってはならず、有力政治家であること自体が極めて恥ずべきことと言わねばなりません。

今回の高校教諭の姿勢について、埼玉県教委に寄せられた意見は次の通りとなっています。
  教員の行為に理解を示す  44%
   
校長 教育長への批判    33%
  
教員の行為に批判     23%
           
(4/20産経新聞)

 また、いわゆるママたちはどう考えているのでしょうか。
  「問題だと思う」     40%
  「問題だとは思わない」  32%
  
「どちらでもない」    28%
     
(4/24
ママ参加型サイト/ママこえ)

 大体、賛否が拮抗していると思ってよいのではないでしょうか。教諭の行為を当然だと思う人は、近年の、私、子供、家庭、家族を重視しようとする考えに沿っており、先生といえども他の職業と全く同じではないかと見ています。逆に、問題だと思う人は、先生というのは他の職業とは別だと考えています。また、校長・教育長への批判は組織に問題ありとする考えだと思われます。

 それでは、どう考えればよいのか、私は次のように考えています。

社会にはいろんな職業がありますが、それに携わる人それぞれに求められる「職業意識」「職業倫理」は異なります。たとえば今回のフェリー事故で、船長には、船長としての意識・倫理・責任が世間から求められていることが明白になりました。それに応えてこそ真の職業人であり、プロフェッショナルというものではないでしょうか。「教諭」も全く同じだと考えます。わたしは“職業意識の観点から”を重視したいと思います。

いわゆる、初等~中等教育の“先生”とは、①「教師②「教諭③「教員」のどれを指すのでしょうか。先生の一部分を採ればこの三種の言葉はいずれも真実ですが、職業倫理の観点から見れば、①の「教師」だと考えます。

 学校での先生の立場は、子供に生きる力を育むという重要な役割を担っており、極めて重いものがあります。よく、先生は「聖職者」か「労働者」かと問題提起されますが、それは、上の①~③のどの言葉をあてるかによるものであり、教師を意識するのであれば聖職、教諭であれば聖職と労働者の中間、教員であれば専門労働者とみなすことが出来るのではないでしょうか。わたしは、先生はすべからく教師であってほしいと願うものですが…。

今回の教員の行為に理解を示す人は「担任する生徒の入学式よりも、かわいいわが子の入学式の方が大事」「入学式なんて大したことではない」と言いますが果してそうでしょうか。

 ものごとは、すべて“節目”が大切です。企業であれば、期末決算、中間決算、創立記念日、などを節目にして新たなスタートを誓い、会社の永久の発展を期そうとします。同じように、入学式も大きな人生の節目と言えるでしょう。教師はそれにかかわることができる素晴らしい職業であることを誇りに思わなければなりません。

 近年、何でも、大したことはない、形はなくとも心があればよいという安直な現状自己肯定の思考方法が蔓延するようになり、入学式、卒業式においても、国歌斉唱、国旗掲揚を排除する輩(一部の教員/保護者/マスコミ)が存在します。そういう連中に引っ張られ、年々、公私の区別がつかない世の中、公」よりも「私」を重視する社会になりつつあります。

結論として、担任の教師は息子の入学式には出ず、勤務先の学校の入学式に出席し、新入生との初顔合わせに心を通わせることを選ぶべきでしょう。息子さんには事情をはっきり説明すれば間違いなく理解し、母親の職業観、職業意識、職業倫理にあらためて尊敬の念を抱くのではないでしょうか。

また、教育にかかわるあらゆる組織も「職業倫理の文化」を醸成する校風を育てていくことが肝要だと思います。近年、わが国は、政も官も民も、組織として、それを育む努力を怠っていることが顕著であり、わが国が弱体化しつつある最大の要因だと考えます。

 職業意識、職業倫理の根幹をなすものは、自分の職業に情熱を傾けることではないでしょうか。教師という厳しくも尊い職業に求められるのも情熱なのです。ここに、偉大なる賢人の言葉を引用しましょう。

“人間として自覚のあるものにとって、
情熱なしになしうるすべては、
無価値である。”
   (マックス・ウェーバー )

 みなさんはどのようにお考えでしょうか。

次回も
時事エッセー
です

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コメント

(この問題にはいろいろなご意見があろうかと思いますが、学校教育の事情を知悉している友人の齋藤さんから次のようなご意見をいただいています。ご参考ください)

 教師には最大40日間(単年度で20日間の有給休暇)の年休取得権があるが、学校長の側にも「年休取得時期を変更させる権利」(時季変更権)がある。児童生徒の知識・技能・体力及び情操の向上を目指す学校教育(公立の場合、小・中・高校がその対象と考えていい)を支障なく進めるには、学校教育上特に重視している行事(入学式、卒業式、修学旅行等の式事)は全職員の出勤が求められる。

 特に式事の担当学年の教員については出勤が必須である。また特定の行事のない日頃の教育活動においても「偶然か必然か」により多数の教員が同日に年休を取得すると授業に重大な支障が出るため学校長が「時季変更権」を行使することができる。(一般にはその前段階で教職員に事情を話して出勤させるが。)

 今回の背景には、当該教員及び高教組の権利意識とそれに負けている学校長の力量問題がある。だがそれ以上に深刻なのは近年目立つ「公の意識」の劣化である。社会のあらゆる分野で一人(私)の生命や権利を尊重するあまり、反って百人(公)の生命や権利を無視する、という中国や韓国に似た風潮がわが国にも進行しているのではないか。個人(私)より多数の仲間(公)を大切にしてきた日本の伝統的な精神文化が危機に瀕している。かつて美濃部都知事が「一人でも反対する人がいれば橋は造らない」と言ったことがあったが、あれから数十年、社会崩壊は更に進行している。

投稿: のんちゃん | 2014年5月 2日 (金) 16時14分

いつも楽しく拝見させていただいております。
長文乱文失礼いたしますが、二言申し上げたく、コメントいたします。

隣の国の船長の職業意識は論外ですが、息子の入学式を選んだ先生の職業意識については、違う論点があり、そちらが重要なのではないかと思います。
私見、先生にとってみれば、息子の入学式というのは、母親としての尊い使命の発露があり、一方で生徒の入学式という人様の人生の節目に立ち会うという職業的使命があり、その2つがバッティングしたことに問題がありますが、そもそも、何故バッティングしたのかが問題だと思います。息子が生まれた時から、入学年度は予測可能です。では、なぜ息子が新入生の時期に新入生の担任を引き受けなければならなかったのかが問題なのではないでしょうか?職業意識に含まれるかもしれませんが、専門家に問われるのは先を見通す力だと思います。学校とこの先生に2,3年先を見通す力があれば、このような悲劇は生まれなかったのだと思います。

小保方氏の件について批判が多いですが、人生の先輩方がどれほどご立派なのかお聴きしたくなります。早稲田大学レベルの博士論文がそれほどの品質でないことは、想像に難くないにもかかわらず論文のレベルが低いと若手を叩く姿には辟易とします。
自由な発想を持って研究を行う研究者を育てると謳いながら、出る杭を打つ、若い芽を摘む理研の姿には、新たな天才を発見し育てるという気概のかけらも感じられません。小保方氏が天才か偽物かは別にして、本物かどうかわからないものを叩き潰す姿は、「特定国立研究開発法人」の趣旨には合わないと思います。
彼女が本物であった時、彼女は日本に残るでしょうか?その時にまた反省するのでしょうか?

過激な文章になってしまいました。勝手な書き込みご容赦ください。

投稿: 石原佳和 | 2014年5月 2日 (金) 12時12分

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