「友好」か「親善」か、それとも「○○」か!
453回目のブログです。
『座右の銘』<一節> 白楽天
千里始足下(千里は足下より始まり)
高山起微塵(高山<こうざん>は微塵<みじん>より起こる)
吾道亦如此(わが道もまたかくの如く)
行之貴日新(これを行いて日々に新たならんことを貴ぶ)
千里の道も足下から始まり、高い山も微塵から出発します。わたしの道もこれと同じようなものであり、実践して、日々新たであることを貴びます…。
時には、一歩一歩、着実に歩んでいかねばならない局面に遭遇することがあります。そんな時の心構えとして、わが国には誰でも知っている諺(ことわざ)があります。「急いては事を仕損じる」(せいてはことをしそんじる)。何事も焦ってやると失敗しがちだから、急ぐときほど落ち着いて行動せよという戒めです。似たようなことわざに「慌てる乞食は貰いが少ない」とか「待てば海路の日和あり」というのもあります。
これは、わたし達ひとりひとりの心構えとして捉えるばかりではなく、国と国との関係においても該当する場面があるのではないでしょうか。たとえば、今日の、日中や日韓の首脳会談についても言えると思うのですが、わが国の“友好議員”は、こらえ性もなく、前のめりに急(せ)いている姿を露呈しました。
■ 慰安婦問題で「共に努力」=日韓・韓日議連が共同声明
超党派の日韓議員連盟と韓国の韓日議員連盟は25日、ソウルで共同声明を発表し「国交正常化50年の来年、両国関係が一層発展する飛躍の年になるよう努める」と表明した。
今回、従軍慰安婦問題が初めて正式議題として取り上げられ「当事者の名誉が回復される措置が早急に取られるよう共に努力する」ことも明記。
声明は「両国が、歴史を直視しながら未来志向の関係を構築しなければならない点で意を共にした」と強調。これに関して「日本側は、河野洋平官房長官談話や村山富市首相談話など歴代政権の立場を継承することを再確認した」としている。
(10月25日 時事通信)
この声明には「歴史を直視しながら…」とありますが“歴史”についての概念が日韓では全く異なっていることは自明であり、韓国サイドは、韓国の歴史の見方に日本側が従うことを約束したと思ったに違いありません。これでは、日本超党派の日韓議員連盟のメンバーが何のために訪韓したのかわからず、声明など発する必要はなかったのではないでしょうか。
国と国が良好な関係を意味する言葉に「友好」と「親善」があります。この二つの言葉の意味について、著名な外交評論家・加瀬英明さんの一節を引用しましょう。
≪このあいだ都内のパーティで、中国の高官と再会した。「先生は中日友好の井戸を掘って下さった1人ですから、今後も期待しています」と、褒めてくれた。
私は礼を述べてから「日本では安心できない相手の国に対して、友好関係といいます。日中友好、日露友好、日朝友好に対して、日米親善、日韓親善、日印親善というように、使い分けています。ご一緒に親善関係を築くために、努力しましよう」と、答えた≫
(ブログ泉幸男氏「国際派時事コラム」<平成24年7月>から)
たしかに、単純なる「友好」は胡散臭く、薄汚れたイメージになっていますが、一方、「親善」は明るく、真の友好関係を意味しているように思えます。そう考えれば、現在の日韓関係は、日韓親善ではなく日韓友好の状態であり(いや、それよりも日韓敵対?)、日中友好、日露友好、日朝友好の組に入れるべき存在ではないでしょうか。
辞書によれば「友好」とは、国家・団体・組織など相互の間で、摩擦なく交際し交流することとあり、反対語は「敵対」(敵となって相手に刃向うこと)とあります。
また「親善」という言葉には、親善を図る、親善試合、親善使節、親善訪問などがあり、お互いを知りあい仲良くしようとの明るいイメージを抱かせます。
ところで「友好」で思い出すのは「友好商社」です。友好商社は、昭和33年(1958)長崎国旗事件によって日中貿易が中断した後、昭和35年(1960)貿易を再開するに当たり、中国側が取り引き相手としてふさわしいと指定した日本の貿易会社のことを言います。友好商社は「中日三原則」を積極的に支持し、中国敵視の政策に反対する態度を明らかにしたので、中国は彼等を支持したのです。
友好=“ひもつき” 友好という言葉が胡散臭いイメージに堕したのはこの故であり、日中友好とは中国サイドの主張、要求に唯々諾々と応ずることが出発点にあったことを忘れてはなりません。
友好か親善か、わたしの拙い見立てを一覧にしますので、みなさんもお考えになってください。
親善(安心できる) 友好(安心できない)
日 中 ○
日 台 ○
日 朝 ○
日 韓 ○
日 露 ○
日 米 ○
日 印 ○
日 仏 ○
日 独 △
日 英 ○
インターネットでGoogleを引きますと、日中でも、友好協会・友好会館・友好医院・友好条約・親善協会などいろいろと出てきますが、何はともあれ、薄汚れた色のついた「友好」から、清潔で和やかで明るい「親善」に向かうようにすることが賢明ではないでしょうか。
そう考えても、日韓議員連盟のように、拙速にことを運びたいと前のめりになり、相手国サイドの術策に嵌ることは避けなければなりません。拙速は禁物!
どうしてそんなに急ぐのでしょうか。日中でも、日韓でも、ことがここまでこじれたのであれば、じっくりと構えるべきで、今後は、あらためて、白楽天(白居易)の座右の銘にあるように、千里を足下から一歩一歩、また一歩と進めていくべきではないか思う次第です。
「友好」か「親善」か、それとも「○○」か!
○○に、「協調」「敵対」「距離」「静観」「成り行き」か、それともその他の言葉か、あるいは不要か…みなさんには、何を入れるべきかをお考えいただきたいと思います。
友好よりも静観!それから親善へ!
みなさんはどのようにお考えでしょうか。
次回も
時事エッセー
です
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コメント
宗教、文化、人種などに大きな差異のない英仏独等の西欧諸国は建国以来、数えきれないほどの戦争を重ねてきた。また同じ人種で同じ過去を共有してきたインドとパキスタンが信仰する宗教の違いで分離し、今もなお敵対している。 情緒的な平和を好む言霊信仰の日本人は「友好を唱えれば世界は一つになる」と信じているようだが、現実の世界史を顧みれば百年の友好を樹立している二国関係など一つもない。昨日の敵は今日の友であり、今日の友は明日の敵である。 個人・家族にとっても民族・国家にとっても最も重要なのは生命・財産の保持である。キリスト教圏とか仏教・儒教圏、あるいは英語文化圏と漢字文化圏などといった共通の宗教や文化は国家の安全を保障するものではない。 まして「善意」や「正義」といった不明確な言葉で外交を進めることは最も危険である。なぜなら相手国にとっての「正義」や「善意」とは彼らが望む形で懸案の問題を解決することに他ならないからである。 どんな隣国であっても隣国は常に潜在的敵対国であることを肝に銘じ、両国間に問題を生じたときできるだけ相手国に武力を使わせずに、我が国の国益を保持したまま問題を解決する道を探るのが真の外交である。
投稿: 齋藤 仁 | 2014年10月31日 (金) 09時02分