素晴しきかな古都…秋篠寺・平城宮を訪ねる!
455回目のブログです。
“君待つと 我が恋ひ居れば 我が宿の 簾動かし 秋の風吹く”
額田王(万葉の代表歌人)
あの方を恋しく思ってお待ちしていると、わが家の戸口の簾(すだれ)がさやさやと動き、あの方かと思ったけれどもばお姿はなく、ただ秋風が吹いているばかり……。
額田王(ぬかたのおおきみ)と言えば、万葉集初期の代表的女流歌人であり、情熱的な歌で知られ、数々詠った相聞歌(万葉集での恋の歌のこと)の伸びやかな調べには、万葉調の素朴で純真な人間性をうかがうことが出来ます。
その知的で情熱的でふくよかな印象を受ける額田王が、待ち人来たらずの寂しさの象徴として秋風、秋の風という言葉を使っているのですから、わたし達一般の下々が、秋と言えば、何となくもの悲しくなるのも致し方のない自然な感情なのかも知れません。
そんなわけで、多少はもの侘しいであろう秋の古都の情緒を味わうべく、先日、気の置けない友人ら8人で、奈良の「秋篠寺」と「平城宮」を訪ねました。そぼ降る小雨の生憎の天気でしたが、それなりの情趣を満喫しました。
京都駅集合 → 近鉄/大和西大寺駅下車 →【秋篠寺】→ 昼食 →【平城宮大極殿】→【平城宮朱雀門】→【平城宮歴史館】→ 打ち上げ → 近鉄/大和西大寺駅解散
いままで、古都奈良の歴史散策では、山の辺の道、ならまち、飛鳥路、藤原宮跡、纏向遺跡、春日大社、石上神社、崇神天皇陵、大神神社、東大寺、西大寺、東福寺、薬師寺、唐招提寺、室生寺、長谷寺、法隆寺、中宮寺、正倉院、などを巡りました。平城宮も過去訪れたことはあるのですが、今回はゆっくりとまわることにしました。
さて、近鉄大和西大寺駅までは京都から30分、そこで下車してから「秋篠寺」へ徒歩で向かいますが、奈良の道は悪路が多く、本当の観光都市にするにはもっと努力が必要ではないかと思ったりしたところです。のんびりした風景を歩くこと20分くらいで到着。
【秋篠寺】
(苔の天鵞絨)
宝亀7年(776)、天変地異の多発する時代背景に対する光仁天皇の勅願により建立された寺院。境内の鬱蒼とした木立に覆われた道の左右には、一面に天鵞絨(ビロード)のように滑らかな苔が生えており、境内全体が清らかな雰囲気を保っています。悠然とたたずむ本堂は簡素にして気品あり、国宝に指摘されるのも肯かざるを得ません。
堂内には「薬師如来」「日光菩薩」「月光菩薩」の薬師三尊像、東洋のミューズ(文芸・学術・音楽・舞踏などをつかさどるギリシャの女神)と呼ばれ、瞑想的な表情と優雅な身のこなしで多くの参拝者を魅了する、2メートルを超える高さの「伎芸天」など重要文化財が多く安置されています。
堂内は静寂な中にも、穏やかで凛とした空気をも漂わせており、さすがに秋篠寺だと思いました。というのも、皇室の『秋篠宮家』の名称は、ここの地名と寺院名である“秋篠”に因んだものだからです。
“秋篠や 外山の里や 時雨らむ 生駒の岳に 雲のかゝれる”
西行(平安末期の僧侶・歌人)
“諸々の み佛の中の 伎芸天 何のえにしぞ われを見たまふ”
<歌碑> 川田順(明治~昭和の歌人)
秋篠寺の拝観を終え、大和郡山駅のそばで小ビールで軽くのどを潤しながらの昼食。ここからまた、約20分歩いて広大な平城宮跡に向かいました。古の奈良の都を想い描きながら歩く足取りは霧雨のなかでありながら軽快なものがあります。
平城宮は奈良時代の古都平城京の大内裏。平成10年(1998)年、東大寺などと共に世界遺産に登録されましたが、考古遺跡としては日本初となっています。甲子園球場が30個も入る広大なスペースには、今、大極殿、朱雀門、東院庭園、その他として遺構展示館・平城宮歴史館・平城宮資料館があります。
大極殿は、天皇の即位式や元日朝賀などの国家儀式、あるいは外国使節の歓迎の儀式など、国のもっとも重要な儀式のために使われた平城宮の中心となる建物。正面44m、側面20m、高さ27m。直径70cmの朱色の柱44本、屋根瓦約9万7000枚を使った、堂々たる建造物であり、平城遷都1300年にあたる平成22年(2010)に復元完成しました。
浅沼組、竹中工務店、森本組が、木造建築技術の粋を集め、宮大工の技を結集して、その建築に当たったもの。上村淳之画伯により東西南北の四神である青龍、白虎、朱雀、玄武の絵が描かれています。また、殿内には「高御座」(たかみくら・天皇のお座りになる席・玉座)が設けられており、その威厳ある荘重さには圧倒されます。
当日は平城京天平祭がおこなわれており、大伴家持を中心とした万葉集の和歌の分かりやすい解説などに耳を傾けました。家持が越中の守として富山県高岡市に赴任したことで和歌が盛んとなり、畿内を除いて万葉歌所出地名の最も多いのは富山県であり、越中万葉と呼ばれているとのこと。
朱雀門(すざくもん)は、宮城(大内裏)の最も重要な南面する正門を言います。平城京の入口である羅城門をくぐると、75mもの幅をもつ朱雀大路がまっすぐ北に伸び、その4km先に平城宮の正門である朱雀門が建つという都市構造になっていました。正面32m、側面17m、高さ22m、見上げれば青空に映える朱色の見事な雄姿は、平成10年(1998)復元完成。
(それにしても、平城宮跡の中央、大極殿と朱雀門の間を近鉄電車が通っているのですが、この“無粋さ”は何とかしなければなりません。奈良の歴史、観光都市の名が泣きます)
「平城京歴史館」には『遣唐使船』が展示されています。全長30m、幅9.6m、排水量300トン、積載量150トン、この小さな船に80人も乗り、遣唐使たちが、命懸けで大海を渡り、奈良時代の日本の文化の発展に寄与せんとした気高い志に、熱い感動を覚えざるを得ません。
なかには、遣唐留学生として唐に渡り優れた知性と教養と才能を発揮し、時の玄宗皇帝に重用されたため長期逗留となり、一度は帰国せんとするも大嵐に難破してついに帰国を果たせなかった阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)のような例もあり。阿倍仲麻呂の、望郷の念やみがたきを詠った名歌、悲痛な絶唱には心を揺り動かされます。
“天の原 ふりさけみれば春日なる 三笠の山に 出でし月かも”
天を仰いではるか遠くを眺めれば、月が昇っている。あの月は故郷、奈良の春日にある、三笠山に昇っていたのと同じ月なのだなあ……。
この和歌が百人一首に選ばれているのも、なるほどとうなずけます。平城京歴史館は、激動する古代のアジアと日本の本格的な国造りの歴史をわかりやすく展示してあり、遣唐使船とともに見る価値が十分あると思います。
これで今回の秋篠寺・平城宮の散策は終わりましたが、さいごは、例によって、大和西大寺駅の近くで冷たいビールをごくり、疲れを癒しました。
それにしても、古都散策の魅力は尽きるところがありません。千年を優に超える古の時代の雰囲気を、あるいはその時代精神を、ある所では明瞭に、ある場所ではおぼろげに、現代のわたし達の面前に連綿として伝えてきている「日本の歴史」の偉大さに、あらためて感銘を覚えました。
素晴しきかな日本の歴史! みなさんにも歴史散策をお薦めします。
次回も
時事エッセー
です
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コメント
素晴らしい写真と紀行文ですね。
民族の故郷、奈良は誰にとっても心ひかれる場所ですが
こちらからは何分にも遠く気楽に行けないのは残念です。
それでも昨年夏には、引率者と気のおけない仲間達で
「欠史八代」の史跡(宮跡)巡りの旅をしました。
2代綏靖天皇から9代開化天皇は非合理と歴史学会から
その存在が否定されていますが、史跡を歩いてみて
八代の実在を信じることができました。
山辺の道を歩いたことも遠い思い出です。
足腰が大丈夫なうちにまた史跡巡りをしたいものです。
纒向遺跡=邪馬台国?の謎解きの旅も魅力です。
投稿: 石原 | 2014年11月24日 (月) 17時55分