歴史“history”は物語“story”!
471回目のブログです。
“父母が 頭掻き撫で
幸くあれて 言ひし言葉ぜ 忘れかねつる”
丈部稲麻呂(はせつかべのいなまろ・万葉集)
お父さんとお母さんが、代わる代わる自分の頭を抱くようにして撫で「無事に戻ってこられますように」と言ったあの言葉が今も忘れられない…。
万葉集に98首ある防人歌の一首。防人(さきもり)は、今から1300年ほど前、大陸・朝鮮半島からの軍事攻撃を憂慮して、筑紫・壱岐・対馬など九州沿岸の防衛に諸国から赴いた辺境防備の兵です。この歌は、遠くの任地に赴き、両親と別れた際の言葉を昨日のように想い出し、望郷の思いを切々と詠んだものであり、心に響く防人の歌です。
さて、前々回の小ブログで、自国の建国・独立の日を正しく答えた人の割合が、先進国のなかでは飛び離れて低く、何とわずか19.3%にすぎないことを指摘しました。
国際間の競争がますます厳しさを増している時、自国の歴史さえ知らない人は、無国籍人、非教養人、非知識人として無視されるか軽視されると言われます。日本人が日本人ではない…なぜこのような体たらくになったのでしょうか。
それは、過激なイデオロギー、教育の暴走、メディアの歪み、公よりも私の重視、などによるものだろうと考えられますが、ここで、中学校歴史教科書の実態を覗いてみましょう。採用率が50%を超す東京書籍と新参の扶桑社(現育鵬社)を対象。(東京書籍と扶桑社の中学校歴史教科書の比較・平成22年版・岡田隆志氏所論より引用)
①歴史的人物の掲載数
東京書籍:150人 扶桑社:262人
(東京書籍に登場する人物はあまりにも少ない)
②扶桑社には載っているが、東京書籍には載っていない人物
神武天皇・孝明天皇・明治天皇・昭和天皇
(建国・維新・激動の時代を教えないとは信じられない!)
忠臣蔵の大石内蔵助
(日本人の涙をしぼってきた国民的英雄をなぜ載せない)
二宮尊徳(金次郎)
(勤勉・道徳・財政再建は現代にも通用する!)
吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允、勝海舟
(これでは全く明治維新を理解できず)
東郷元帥、乃木大将、小村寿太郎
(まさか、これでは日露戦争の苦心と勝利を理解できず)
八田与一(日本統治時代の台湾で農業水利事業に大きな貢献)
(今でも感謝の慰霊祭が行われている事実を知らねばならない)
野口英世、長岡半太郎、湯川秀樹
(技術立国日本のさきがけではないか)
③東京書籍は、日露戦争の日本海海戦においてロシア・バルチック艦隊を撃沈、世界に名をはせた日本海軍の英雄である東郷平八郎元帥の説明は一切せず、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の所で朝鮮水軍の李舜臣の名を本文に載せ、彼の銅像の写真さえ載せています。これでは、まるで韓国・朝鮮の教科書であり、日本の教科書とは言えないのではないでしょうか。
④東京書籍は日本神話を載せていない。日本の神話は日本の建国につながるものですから、そのことを教えない東京書籍はそもそも「日本」が嫌いで、永い「歴史」にとてつもない嫌悪感を抱いているとしか思えません。
したがって、神武天皇の東征を教えなければ、東征の折、神武天皇の道案内をしたといわれる三本足の八咫烏(やたがらす)も教えることもないでしょう。サッカー日本代表選手達がユニフォームの胸に付けている八咫烏を先生は子供たちにどう教えるのか、聞いてみたいものです。
⑤聖徳太子は、小野妹子を遣隋使として支那の隋国の煬帝に送った時『日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無なきや』
という手紙を持たせました。この言葉は、隋帝国に対する日本の対等外交の宣言であり、日本国家自立自尊の重要な意味をもちます。しかし、東京書籍はこのことを教えないのですから、日本国の独立が嫌いで、中華帝国の属国が好きということでしょうか。
⑥天神様として太宰府天満宮、北野天満宮、湯島天神など全国の天満宮に祭られて、国民に親しまれている菅原道真を登場させていません。そういう人物を教えない事は、身近にある神社仏閣や庶民信仰の歴史や伝統文化を日本の子供たちに教えないという事を意味しています。
これを見れば、現行歴史教科書が危険な存在だということは明白です。こんな反日本、反日本歴史、反日本文化の教科書を検定パスさせている文科省は、日教組とつるみ、反日国家とつるみ、左翼イデオロギーを信奉し、日本という国を、着々と、内部から長期的に弱体化しようとしているのではないかと疑われても反論できますまい。
先日、愛知県一宮市の市立中学の校長が「建国の由来」を学校のホームページのブログに書いたところ、市の教育委員会から『削除』の命令が下ったそうです。文科省、教育委員会は狂っていると断言します。心を打つ素晴らしい文章だと思いますので、長文ですがお読み下さい。
◆ ≪愛知・一宮市立中学校長のブログ全文≫
2月11日は建国記念日です。そこで、今日は日本のルーツ、日本の起源について、お話をしたいと思います。日本の建国は、今から2675年前の紀元前660年2月11日、初代、神武天皇が即位した日が始まりです。世界一広いお墓、大仙古墳で有名な、16代仁徳天皇が、ある日高台に登って遠くをご覧になられました。すると人々の家からは、食事の準備のために煮炊きする煙が少しも上がっていないことに気付いたのです。
仁徳天皇は「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことであろう」と仰せられ、三年間、税を免除されました。
税を免除したために朝廷の収入はなくなり、宮殿は大いに荒れました。天皇は衣を新調されず、茅葦屋根が破れ、雨漏りがして、星の光が屋根の隙間から見えるという有様でした。
三年がたって、仁徳天皇が同じ高台に出られて、遠くをご覧になると今度は、人々の家々から煮炊きする煙が盛んに立つのをご覧になり、その時、仁徳天皇がこのように言われたということです。
“高き屋に のぼりて見れば
煙立つ 民のかまどは 賑わいにけり”
そして、一緒におられた皇后に「私は豊かになった。喜ばしいことだ」とおっしゃったということです。
皇后はそれを聞いて「陛下は変なことをおっしゃいますね。衣服には穴があき、屋根が破れているのに、どうして豊かになったといえるのですか」
すると「国とは民が根本である。その民が豊かでいるのだから、私も豊かということだ」と言われ、天皇は引き続き、さらに三年間、税をとることをお許しにならず、六年が経過して、やっと税を課して、宮殿の修理をお許しになりました。すると人々は命令もされていないのに、進んで宮殿の修理をはじめ、またたくまに立派な宮殿ができあがったといいます。
この話は神話であり、作り話であるという説もあります。しかし、こうした神話こそが、その国の国柄を示しているとも言えるのです。
こうした天皇と国民の関係性は、何も仁徳天皇に限ったことではありません。敗戦直後の1945年9月27日、124代昭和天皇はマッカーサーと会見をしました。そして、その会見で昭和天皇はこのようにマッカーサーに話したのです。
「今回の戦争の責任はすべて自分にあるのであるから、東郷や重光らを罰せず、私を罰してほしい。ただし、このままでは罪のない国民に多数の餓死者が出る恐れがあるから、是非食糧援助をお願いしたい。ここに皇室財産の有価証券類をまとめて持参したので、その費用の一部に充ててほしい」と述べたのでした。
それまで、天皇陛下が、多くの国王のように、命乞いに来たのだろうと考えていたマッカーサー元帥は、この言葉を聞いて、やおら立ち上がり、陛下の前に進み、抱きつかんばかりにして陛下の手を握り「私は初めて神のごとき帝王を見た」と述べて、陛下のお帰りの際は、マッカーサー自らが出口まで見送りの礼を取ったのです。
このように、初代、神武天皇以来2675年に渡り、我が国は日本型の民主主義が穏やかに定着した世界で類を見ない国家です。
日本は先の太平洋戦争で、建国以来初めて負けました。しかし、だからといってアメリカから初めて民主主義を与えられたわけではありません。また、革命で日本人同士が殺しあって民主主義をつくったわけでもありません。
古代の昔から、日本という国は、天皇陛下と民が心を一つにして暮らしてきた穏やかな民主主義精神に富んだ国家であったのです。
私たちは日本や日本人のことを決して卑下する必要はありません。皆さんは、世界一長い歴史とすばらしい伝統を持つこの国に誇りを持ち、世界や世界の人々に貢献できるよう、一生懸命勉強に励んで欲しいと思います。(原文のまま)〆
歴史は物語です。Historyはstoryの意味を持っています。歴史を冷酷に冷めた目で見るのではなく、暖かく、穏やかに接することにより、大きな流れと幅の広い奥行きが、交織のように色を混ぜ合わせながら様々な物語を織っていることを感知できるのではないでしょうか。
みなさまはどのようにお考えでしょうか。
次回も
時事エッセー
です
| 固定リンク
コメント