炎の改革者“山田方谷”…その現地を訪ねる!
483回目のブログです。
驚天動地の功業も
至誠惻怛(しせいそくだつ)、国家の為にする公念より出でずば
己の私を為すに過ぎず
(山田方谷・幕末の陽明学者/改革者)
どんなすばらしい功績も、まごころと他人の哀しみを慮る心をもち、国家のために公を大事にする心から発したものでなければ、それはただの私欲にしかすぎない…。
山田方谷(やまだほうこく)って誰?
私は、幕末の改革者としての名前だけは知っていましたが、詳しい事績は全く知らなかったのですが、方谷を現代の視点から研究している友人の導きのもと、つい先日十数人のメンバーで、方谷が生れ、育ち、偉大な功績をあげた、旧備中松山藩、現岡山県高梁(たかはし)市を訪ねました。
伯備線(倉敷駅~伯耆大山駅)の中間にある備中高梁駅集合、備中松山城・武家屋敷(旧植原家/旧折井家)・頼久寺・ホテル泊/講話/懇親会・高梁市歴史美術館・牛麓舎(塾)跡・長瀬塾跡・方谷駅・方谷の里ふれあいセンター・方谷園(碑/お墓)・広兼邸・吹屋銅山笹畝坑道・郷土館・旧片山家住宅・西江邸、備中高梁駅解散 という盛り沢山の行程でした。
「備中松山城」は、鎌倉時代に臥牛山の頂に建造された山城であり、国の重要文化財となっています。「行ってよかった!日本の城ランキング2014」で7位ですから、人気の高い城と言えるでしょう。しかし、急峻な山の頂上まで歩いてヘトヘト、貸し杖がなければかなり厳しいと思いますが、さすがに重文、何となく豊かな精神を感じさせる雰囲気を醸し出しています。歴代城主は16家、最後の藩主が板倉勝静(かつきよ)であり、勝静は山田方谷を登用し藩政改革に成功、幕末には老中首座となり、徳川慶喜を補佐しました。とにかく一見の価値あるお城です。
山田方谷は、文化2年(1805)備中松山藩の生まれ。方谷の父は先祖が武士であったのに農民になったので、家名再興を願い、子の方谷に学問の手ほどきをしましたが、母親も父以上に教育に熱心でした。
方谷は幼い時から神童と言われましたが、その証拠として、方谷4歳(数え)の時の書が各所で展示されています。「風月」「天下太平・國土安全」など、墨痕鮮やか、堂々たる風格を醸しており、これが満3歳の書とはとても思えない迫力を感じました。
それからは儒学(朱子学)を学び、農業と菜種油の製造販売に励んでいたところを藩主の板倉勝職(かつつね)から奨学金をもらい京都に遊学、帰藩後名字帯刀を許され、有終館会頭を拝命。以後、京都遊学や江戸での佐藤一斎のもとで「陽明学」を学ぶ。江戸の塾では佐久間象山以上の存在感を示したのですから、方谷の学問の高さは比類のないものだったと言えるでしょう。
帰藩後は有終館の学頭として藩士の教育にあたり、陽明学をベースに朱子学を教えるとともに、自宅では牛麓舎という家塾を開き広く人材教育にあたりました。
ところが、新しい藩主・板倉勝静から、備中松山藩の元締と吟味役を命ぜられ、疲弊しきっていた財政再建を中心にした藩の建て直しに当たることになったのです。方谷の基本方針は6ヶ条。
一、上下の節約
二、負債の整理
三、藩札の刷新
四、産業の振興
五、民政の刷新
六、文武の奨励
簡明なフレーズですが実施貫徹するには困難を極めたと思います。まず「上下の節約」、藩は名目5万石、実質2万石弱、藩士の給与1割カット、贅沢厳禁、接待・賄賂禁止、藩主や方谷もそれに準ず。
「負債の整理」、借金は10万両(年収の2倍以上)、利息は1万3000両。方谷は金主の商人と交渉、藩の帳簿を公開、新規の借金は行わず・従来負債は10年~50年で返済・担保取り崩し・蔵屋敷撤去・藩米の販売権は藩が持つ、など具体的な政策で着々と改善の実を挙げました。
「藩札の刷新」、信用ガタ落ちとなっていた藩札をすべて買い上げ、川原で町民が見守る中で焼却処分。新しく信用度の高い新紙幣永銭を発行、マネーサプライは極めてスムーズになりました。何と言ってもお札は信用が一番、江戸時代にあって公開焼却というパフォーマンスは現代でいう広報、大したものではないでしょうか。
「産業の振興」、米以外の産物は、撫育方(ぶいくかた)という特別会計で管理。その利益で産業振興に投資。鉄・銅・杉・漆・茶・葉たばこ・織物・柚子などを増産。消費地からの要望を取り入れ、それを原材料としてではなく、加工品、製品にと、より付加価値をつける方策を採用。特に備中鍬はベストセラー製品。流通も消費地へ直結して販売。など、産業の振興というよりも産業革命・資本主義そのものとも言えるのではないでしょうか。
これは、現代の経済でいう、マーケティング・サプライチェーン・一貫生産・ブランド・流通革命そのものを指しており、これらがわが国で、幕末に、すでに実施されていたことは驚異という他はありません。欧米に学ばなくても、足元にあったのです。
まさに、日本のケインズ・山田方谷、なぜ誰も教えようとしなかったのでしょうか…残念でなりません。
「民政の刷新」、領民の生活の安定により藩は栄えるとの基本認識に立ち、治安の維持を徹底、学問を奨励、贅沢を戒め、税の軽減、開墾の奨励、飢饉という危機のための「郷蔵」(お米などを貯蔵する蔵)を設営、民生安定のための諸策を実行しています。見事という以外の言葉が見つかりません。
「文武の奨励」、農民や商人などの一般民衆の教育に注力、家塾13・寺子屋62は大きな藩以上の数です。方谷は藩の防衛にはことのほか心を配り、最先端の洋式軍備を導入、農民で組織する「里生隊」を創設し、洋式の軍事教練を実施。
その軍事教練が川原において農閑期に行われたのですが、その状況を、長州の久坂玄瑞が見学しており、技術の高さと統制の見事さに驚嘆しました。久坂玄瑞はこのことを高杉晋作に伝え、それが「奇兵隊」につながったと言われています。したがって、久坂玄瑞・高杉晋作が明治維新の英傑であるならば、春秋の筆法を以てすれば、山田方谷も明治維新の英傑と言えるでしょう。
あらゆる政策を実行した方谷は、わずか8年で借財を返済し、多大な貯金もしました。これは、上杉鷹山が過酷な政策で返済に100年も掛ったことに比べれば、驚異的と言わざるを得ません。厳しい政治・経済・安全保障に直面している現代のわたし達は、鷹山よりも方谷に目を向け、多様な政策の具体的実践の考え方と方法について、虚心に学ぶべきではないでしょうか。
友に求めて足らざれば天下に求む
天下に求めて足らざれば古人に求めよ
政(まつりごと)で大切なことは、民を慈しみ、育てることです。
それこそが大きな力である。
厳しい節約や倹約だけでは、民は萎縮してしまう。
(山田方谷)
方谷は、徳川第十五代将軍、徳川慶喜の「大政奉還の起草文」を書いています。明治に入り、新政府からの度重なる大臣就任の要請を断り、閑谷学校(しずたにがっこう・岡山藩の庶民のための学校)で講義をつづけ、明治10年(1877)亡くなりました。享年73歳。
さいごに。ベンガラ(紅柄/弁柄)製造で財をなした天領大庄屋の西江家は、豪邸のなかに手習い場を設け、子供たちに読み書きを教えるとともに、地域の人々のための郷蔵を建て、飢饉に備えたりしていました。現在の豪勢な建物は、1705年に、出雲の宮大工が、ケヤキ・桧・松・黒柿など、一流の銘木を使って建てられた素晴らしいものであり、機会あればぜひご覧になることをお薦めします。
今こそ、山田方谷の精神と諸施策に学ぶべきではないでしょうか。方谷こそは現代を解決する大きな鍵のひとつであると確信します。
みなさんはどのようにお考えでしょうか。
次回も
時事エッセー
です
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