“独立の精神”なきメディアを憂う!
479回目のブログです。
“ 樫の木の 花にかまはぬ 姿かな
”
芭蕉(俳聖「野ざらし紀行」)
春の百花はその華やかさを競っているが、硬い樹肌と青い葉で高くそびえる樫の木は、あでやかな花よりも風情に富み、堂々とした存在であることよ…。
いわゆるGW真っただ中、今年は例年よりもあたたかく、山吹の花、木蓮の花につづき躑躅(つつじ)や皐月(さつき)が早くも咲き誇ろうとしています。
日本時間の30日未明、安倍総理大臣はアメリカ議会上下両院の合同会議で、日本の総理大臣として初めて演説。アメリカと私、アメリカ民主主義と日本、第二次大戦メモリアル、かつての敵今日の友、アメリカと戦後日本、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)、強い日本へ改革あるのみ、戦後世界の平和と日本の選択、地域における同盟のミッション、日本が掲げる新しい旗、未来への希望(いずれも産経の小見出し)、を格調高く語りました。日米が希望の同盟として、日本の安全保障と繁栄に真実の大輪の花が咲くことを期待したいと思います。
花は花でもいろいろあり、ネットの上での「お花畑」は、現実を逃避したいあまりに、自分に都合良い妄想の中に生き、現実生活に影響を来していることを言います。
要するに「お花畑」=「現実逃避のための妄想」ですが、これは、単にネット社会だけではなく、リアルなメディア社会のなかでも明らかに見出し得る現象です。
“事実”を自分のこととして判断出来ず、自分とほぼ同じ雰囲気を有している周囲の人々や組織、あるいは同じ穴の貉(むじな・一見すると違ってみえても同類・仲間であることのたとえ)であろう近隣諸国のお墨付きを欲しがるメディアの現状を観察すればよく分かると思います。
たとえば、従軍慰安婦吉田清治証言および福島原発吉田昌郎調書の捏造によってクオリティペーパーの資格を完全に失い、輝かしき名声の仮面が白日の下で完膚なきまでに剥がされてしまった朝日新聞を取り上げてみましょう。
4月22日、ジャカルタで開かれたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)60周年首脳会議において、日本国の安倍首相が演説をしました。共に生きる、共に立ち向かう、日本の誓い、共に豊かになる、をキーワードとし、アジア人・アフリカ人は結束し、子や子孫のために、共に平和と繁栄を築きあげようという格調高い内容だったと思います。
ところが、朝日新聞は、次のように報道しました。
■ 安倍首相の演説、韓国が遺憾表明 「おわび」なしを批判
安倍晋三首相が行った演説について、韓国は、戦後70年で過去の「おわび」に言及がなかった点を批判した。一方、東南アジア諸国に問題視する空気は薄かった。
韓国外交省の当局者は、安倍氏の演説について「深い遺憾の意を表す」とコメント。安倍氏が村山談話など歴代内閣の談話や歴史認識を継承するとの立場を公言してきたにもかかわらず「植民地支配と侵略」に対する謝罪と反省という「核心的な表現」を落としたと批判した。(以下略)
(4/23朝日新聞デジタル一部抜粋)
朝日新聞は、まず、参加国ではない韓国の反応を上記の如く冒頭に書いたのです。そしてそのあとに、マレーシア、ミャンマー、カンボジアそれぞれの外相が、日本の侵略やお詫びについてはコメントせず、安倍首相の演説から、日本の積極的な関与と相互協力の前向きな姿勢を感じとったことを記しています。
朝日は、なぜ参加国ではない韓国の反応を見出しに麗々しくトップにもってくるのか、どう考えても間違いであり、価値基準がおかしいとしか言いようがありません。そもそも、アジア・アフリカ会議主要国の反応と日本国民の反応だけでよく、あえてと言うならば、その他の国の1ヵ国として韓国の感想をほんの少し取り上げればいいだけではないでしょうか。
まさしく、朝日はお花畑。朝日がなぜこのような記事の書き方になっているのかを推測してみましょう。
①朝日は、東アジア的封建思想の「中華冊封体制」や「独裁的専制主義」にシンパシーを感じており、自由、民主、人権に大きな価値を置いていないと思われます。
それゆえに、世界のリーダー国たらんとする民主主義国家・日本が大嫌い、自由民主主義の米国も嫌い、華夷秩序(かいちつじょ・中国の皇帝を頂点とする階層的な国際関係)の宗主国中華人民共和国はひれ伏すほど大好き、そして朝鮮(韓国&北朝鮮)は兄として尊敬するほど好き、という感覚が肌身に沁みついており、容易に変わることはないでしょう。
したがって、親の中国様、兄の韓国様の反応、感想がイの一番、気になって仕方なく、それが最も重要なことだとして報道したのです。これは誰が読んでも理に合わず、まさに、精神的倒錯としか言いようがありません。
②朝日は基本的に国家意識が希薄ですから、日本国民、日本人としての自覚も希薄になっていると思います。もしも、日本国民としての意識が普通に濃厚であるならば、掲載記事の順序は、まず、アジア・アフリカの当該国と日本の反応を大きく扱い、そしてそれ以外の国の反応を小さく載せるのではないでしょうか。
③朝日は、世界で生じる事象を、特にわが国に関連する事象については、色眼鏡で見てしまう癖がついているように思えてなりません。少なくとも変形したリベラル左翼の立場を離れ、世界史、アジア史のなかで、あるいは世界地図、アジア地図のなかで“事実を事実として捉え”バランスある報道を願いたいものです。
そういう姿勢であれば、決して、従軍慰安婦吉田清治証言および福島原発吉田昌郎調書のジャーナリズム史上最も恥ずべき捏造大事件などは起きないはずです。
④捏造事件にまだまだ反省していないことがこの記事でよく読み取れます。
⑤思うに、朝日新聞は、独立の気概、独立の精神がきわめて薄弱ではないでしょうか。今も中国や韓国や北朝鮮に、古くはソ連に、判断基準を頼ってきているのですから。
そんな情けない姿勢は排して、まず「日本」に立脚し、わが国の国益をにらみ、わが国の歴史と文化と伝統と先人の心に、暖かく深い敬意を払うことが必要だと考えます。
今、新聞界の先達(明治15年<1882>時事新報創刊)でもあった福澤諭吉の言葉を噛みしめることがメディアに、特に朝日新聞に求められているのではないでしょうか。
“独立の気力なき者は国を思うこと深切ならず”
“内に居て独立の地位を得ざる者は、外に在りて外国人に接するときもまた独立の権義を伸ぶること能わず”
“独立の気力なきものは必ず人に依頼し、人に依頼するものは必ず人を恐れる。人を恐れる者は、必ず人に諛(へつら)うものなり。常に人を恐れ、人に諛う者はしだいにこれに慣れ、その面(つら)の皮、鉄のごとくなりて、恥ずべきを恥じず、論ずべきを論ぜず、人をさえみればただ腰を屈するのみ”
福澤諭吉のいう“一身独立”“独立自尊”、あるいは俳聖・芭蕉の“樫の木の
花にかまはぬ 姿かな”をあらためて心に刻みたいものです。
みなさんはどのようにお考えでしょうか。
次回も
時事エッセー
です
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