“天安門事件”…これが中国の恥部だ!
487回目のブログです。
“人はだれでも、実際に起こらなかったことを、
思い出にすることも、できるものなのです。”
寺山修司(劇作家・天井桟敷主宰)
最近の梅雨は、従来のような“しとしと”と降り続ける現象とは異なり、局地的に集中豪雨のところがあったり、あるいは、ほとんど雨が降らないところもあったりと、何か不気味な感じがしてなりません。
それでも、自然はやはり梅雨、紫陽花の花が七変化の色模様を誇り、まるで、静かなしっとりとした万華鏡を見ている気分にさせてくれます。そして、それもゆっくりと移り過ぎ、22日の夏至も過ぎ、いよいよ暑い夏に向かいはじめました。
わが国の一年の四季は、春、夏、秋、冬、すなわち、暖、暑、涼、寒、とうまい具合にバランスをとってくれていますが、国際政治の舞台は暑いか冷たいかの両極端であり、外交的に、軍事的に、あるいは、宣伝戦や謀略戦において、瀬戸際に追いまくられているように思えます。
仮想敵との「戦」は、相手の弱点をみつけ、そこを突破口にして攻勢をかける以外に、矛先を鈍らせることはできません。政治的、経済的、軍事的、文化的(歴史認識のこと)に、他国を蹴散らせる如く進撃している中国に弱点はあるのでしょうか。わたしは、最大の弱点は「天安門事件」だと考えます。
天安門事件とは、1989年(平成元年)6月4日、民主化を求め、北京の天安門に集まった学生・市民を中国人民解放軍が武力弾圧した事件のこと。この事件は燎原の火の如く各地に広がり、死傷者数は、当局が完璧に隠蔽しているため確定していませんが、北京で、死亡者10,000人、負傷者その数倍、北京以外で死亡者20,000人、負傷者40,000人と国際アムネスティは推定しています。
この事件は、わが国では一般に「天安門事件」と言いますが、弾圧の日をとって「六四天安門事件」とも呼び、欧米では「天安門の虐殺」(Tiananmen Massacre)と称されています。何と言っても、歴史に残る“大虐殺事件”であることは疑いもありません。
文化大革命後、学生たちは自由と民主主義を求め立ちあがり、中国共産党と対立、とうとう「階級の敵」と見なされるようになってしまったのです。この時の民主化を求める学生たちのよき理解者がリベラル派の胡耀邦でしたが、鄧小平により失脚させられました。その後戒厳令の布告あり。
学生たちは、戒厳令布告に抗議、民主主義への移行を求め、天安門広場に続々終結、その数は50万人を超え100万人にも達したと言われています。
これに対し、10万人の人民解放軍が戦車・ロケットランチャー・重機関銃などの重装備をして民衆を包囲。他の都市でも5万人の解放軍が投入されました。
いよいよ、ここで弾圧と虐殺が開始。無差別発砲、全く無防備の学生・民衆を人民解放軍が虐殺する映像はネットで多くみることができますが、最も印象に残るのが、戦車が市民を踏みつぶそうとする象徴的な写真です。この写真は世界にひろがり、一党独裁国家・中華人民共和国の残虐性を一層際立たせたのではないでしょうか。
中国共産党は「天安門広場では1人の学生も殺していないし、流血事件は一切なかった」としており、逆に「学生や市民の一部暴徒が解放軍を襲ったための自衛的行為だ」と開き直る始末。学校教育でもこの事件はなかったことになっています。
近年、中国は、事あれば、わが国に対し、歴史を直視せよ、歴史を正しく認識せよ、と厳しく攻撃してきます。しかし、誰が見ても大虐殺事件と言わざるを得ない天安門事件を全く無かったことにしてしまう“歴史の改竄”(れきしのかいざん・歴史を悪用するために勝手に直すこと)をシラーッと平気で行う中華人民共和国に言われたくはありません。
もっとも、以前にも記しましたが、中国のいう歴史は「プロパガンダ」(宣伝・洗脳の道具)ですから、たとえ歴史的事実であったとしても、自分に都合の良いように、歴史の改竄なんて自由自在にできるものと認識しているに違いありません。逆に無かったといわれる南京虐殺事件を有るものとして改竄するのも自由自在なのでしょう。
歴史について、中国と日本では余りにも意味合いが異なりますが、わたしたち日本国民は、歴史を真面目に、ヒストリー(学問・歴史・史学)として捉えるべきだと思います。
そう考えれば、NHKなどの日本のメディアは、わが国民に対して、真実の天安門事件(経過・学生/市民/解放軍の規模・虐殺数・亡命者の今日)を報道する義務があります。報道については、中国の容喙(ようかい・くちばしを入れること)を許さず、自信をもって堂々と願いたいものです。
天安門事件からすでに26年、自由と民主主義を求めて立ち上がった学生たちや市民の犠牲的精神も今や忘却の彼方の歴史の単なる一コマになろうとしています。しかし、中国が政治、軍事、経済で驚異的な実力をつけ、他国、特に周辺各国にくちばしを入れてきている今日、中国(中華人民共和国)の真の姿である「光と影」を映像で、言葉で、活写することは、誠に時機を得た意義のあることではないでしょうか。
人間の尊厳は、自由と民主主義の体制、人種差別の撤廃、人権意識の徹底、法の遵守、経済の発展などにより確保されます。人種の差別なども、中国ではいまだにチベット人やウイグル人を弾圧につぐ弾圧、アメリカの黒人問題、第2次大戦中のドイツのユダヤ民族圧殺など数多く存在しますが、わが国は反人種差別では徹底してきました。いわゆるA級戦犯と言われる人、東条英機・松岡洋介・荒木貞夫・東郷重徳・広田弘毅・板垣征四郎などはユダヤ人の保護、救済、支援をおこなったという事実を、わたし達は決して忘れてはなりません。
人間の尊厳を、プロパガンダやファンタジーの歪んだ歴史観ではなく、素直にヒストリーの観点から見ることが大切ではないでしょうか。
冒頭の寺山修司の言葉を別の表現にかえれば…。
“中国(中華人民共和国)は、
実際に起きたことを、起きなかったこととし、
歴史の記憶から抹殺することも、できる国なのです。”
…怖いことですね。
みなさんはどのようにお考えでしょうか。
次回も
時事エッセー
です
| 固定リンク
コメント