「暴言」のオンパレード…言論人の資質を考える!
510回目のブログです。
“露をだに いとふ大和の 女郎花 降るあめりかに 袖はぬらさじ”
喜遊(幕末・横浜「岩亀楼」遊女)
露でさえ嫌う日本のおみなえし(女郎花)ですから、決して異人のアメリカ人には身を任せませんよ…。
幕末の遊女として名を馳せた岩亀楼の喜遊(亀遊)の辞世の句とされています。父親が攘夷派であり、その影響で異人を嫌っていましたが、アメリカ人から身請けの話が出て、自ら喉元を剃刀で切って亡くなりました。
喜遊は、和歌・囲碁・茶道などの教養が身についていたと言われ、日本人はもちろんのこと異人にも評判になっていたそうです。この和歌は喜遊の詠ったものではないとの噂がでましたが、真相は分かりません。
幕末の日本は世界一の識字率を誇っていました。言うまでもなく武家階級は100%、農村部を除く江戸府内で90%、全国平均は男子が40~51%、女子が15~21%、驚くべき数字です。
それにしても、幕末から明治維新にかけて、遊女でさえわが国の文芸である「和歌」をたしなんでいたことに加えて、洋夷に対する悲憤慷慨の志が当時あまねくひろまっていたことに驚きを隠せません。
それに較べ、戦後の言論界の不安定と偏り、近年の「言葉」の劣化は見るに忍びない状況ではないでしょうか。
わが国では、政治家を始めとする国家社会のリーダーは、古より「詩歌」によって、自らの志を語り、覚悟を披露しましたが、最近の政治家、それもかなりの肩書のある与野党の幹部でさえ、言葉の貧困が著しく、教養の低さと人間性の酷薄さを嘆かざるを得ません。
それは、ひとり政治家だけではありません。少しばかり例を引きましょう。
■
8/30、国会周辺の安保法制反対集会で、マスコミで著名な山口二郎法政大教授(前北海道大学教授)は「安倍に言いたい。お前は人間じゃない! たたき斬ってやる!」と大演説しました。
何ということでしょう。国立の北海道大学の教授だった人が、日本国総理大臣を呼び捨てたり、たたき斬ってやるなどと叫ぶのは、余りにも常軌を逸した発言です。デモ隊の前ですから舞い上がり、感情が高ぶったのでしょうが、こんな激越な言葉や呼び捨てで人格を攻撃するのは、自らの非人間性を表わすとともに、品性のお里が知れるというものではないでしょうか。
山口教授のことばの貧困、言語の未熟には開いた口が塞がりません。たとえ、野党第1党の重要ブレーンとして、安倍総理と政治スタンスが全く逆であったとしても、人間としての節度があろうというもの。
言葉は、古来“言霊”と言われるように、単にコミュニケーションのツールだけではなく、発する人の心の動き、感情、精神、信念、覚悟などを象徴的に含んでいるものです。したがって、言葉こそがその人の全人格を示すものと言えるのではないでしょうか。
■ 11/24、新潟日報社の坂本秀樹報道部長が、ツイッターで、水俣病原告弁護団長・高島章弁護士対し、不適切な書き込みをしたことがバレました。(読売・産経・DIAMONDより)
「こんな弁護士が3次訴訟の主力ってほんとかよ…。テさ呆れるやら、患者さんがかわいそう」
「はよ、弁護士の仕事やめろ」
「お前、何でもいいけど、自分の姿を鏡に映せ!そのアイコンとは全く違うだろう!このデブ!幻想に逃げるな!お前は醜く汚い!はい終了」
これだけではないのですが、ひどいもの。文章たるや見るに耐えない、えげつない、吐き気を催すような代物です。これが、有力地方新聞社(県紙・49万部)の報道部長の発言ですから、目も当てられません。
坂本報道部長は、いわゆる反安倍の立場とは言え、安倍総理・片山さつき議員・稲田朋美政調会長や一般人に対してまで滅茶苦茶。「安倍はヒトラーかスターリンのコスプレしてるんだろ」「安倍はクソ野郎!早く死ね」「お前の赤ん坊を、豚のエサにしてやる!」や、女性議員を慰安婦呼ばわりしたり、あらん限りの罵詈雑言と悪態のオンパレード、書くのさえ憚られるほどであり、まさに、品性・理性のかけらも見ることはできません。
新聞記者や報道記者は、身内の日常会話では、政治家などを呼び捨てにしているそうですが、まさか、こんなに低レベルとは思ってもいませんでした。…しかしながら、入社以来、他人を、特に国家社会の上層部のひとを呼び捨てにしていたならば、それが習い性となり、他人を見下すことに何らの痛痒も躊躇も感じなくなるのではないでしょうか。
それとは逆に、その会社の風土、いわゆる「社風」が健全で、国家社会に貢献する理念を掲げており、それを上層部が実践している限りは、上記のような罵詈雑言をまき散らすことはありえないでしょう。
そして、特に気をつけなければならないことは、近年ITの進歩により、インターネット上でのSNS(social networking service
ツイッター・フェイスブック・LINEなど)を通じての交流が極めて盛んになっており、一旦、暴言が発せられたら、その情報は即座に世界をめぐり、取り消すことは不可能だということです。
その意味で、言葉は、慎重に選ぶことが大切になります。
例に挙げたお二人は、えげつなく、汚く、先鋭的、エキセントリック、上から目線、あらん限りの悪態をついたのですから、これは持って生まれたものかもしれません。
そうであったとしても、わが国の歴史に学ぶならば、「詩歌」すなわち和歌・俳句・漢詩や詩を通じ、教養・素養を高め、日本の“情緒”に触れるようにすれば、もう少し穏やかで豊かな精神を持てるようになるのではないでしょうか。
近年、黒か白か、右か左か、平和か戦争か、などと物事を表層的に単純化した思考方法が蔓延しており、マスメディアがそれを煽りたてるという風潮が顕著ですが、わたしは、これには大いに疑問を持っています。
有力大学の教授や有力紙の報道部長が、常識では考えられないメンタリティの持ち主であることを考えれば、世の中は、全体としてそのような方向に流されていると見ていいのかも知れません。
山口教授や坂本報道部長は、己の精神において、残念ながら、幕末の遊女・喜遊の足元にも及ばないと思います。
さはさりながら、それでは余りにも悲しすぎます。わたしたちも、時代の悪しき風潮に流されず、こころを豊かにするためにも、文藝の一端に触れることを続けていきたいものです。
みなさんはどのようにお考えでしょうか。
次回も
時事エッセー
です
| 固定リンク
コメント
「遊女でさえ・・・・」「遊女の足元にも及ばない・・」
遊女について、なにか、誤解があるようですが。
真に教養を身につけていたのは、いったい誰だったのでしょう?
投稿: kawaski akira | 2015年12月 4日 (金) 10時07分