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2016年3月18日 (金)

“天罰論”…今、東日本大震災に考える!

 525回目のブログです。

 

かかるとき かかる首相を いただきて かかる目に遭ふ 日本の不幸”
 
             長谷川櫂(俳人『震災歌集』
平成23

 

 長谷川櫂(はせがわかい)さんは著名な俳人ですが、あの悪夢ともいうべき東日本大震災の未曽有の悲劇を、時事現象として、あえて感情を直截的に表現できる短歌(和歌)に詠んだものと思います。

 

 ある政治家は「すぐれた詩人は政治家の力量をたちどころに見破った」と述べていますが、その時の政治、政権、首相(菅直人氏)の言動を思い出しても、確かにそうだと納得させられます。

 

 『震災歌集』の内から二三引用しましょう。

 

“顔見せぬ 菅宰相は かなしけれ 一億二千万人の みなし子”
 
“現地にて 陣頭指揮とる 一人の 政治家をらぬ 日本の不幸”
 
“被爆しつつ 放水をせし 自衛官 その名はしらず 記憶にとどめよ”
 
“「こんな時卒業してゆく君たちはきっと強く生きる」と校長の言葉”
 
“みちのくは けなげなる国 いくたびも 打ちのめされて 立ちあがりし国”

 

 和歌、短歌は昔から日本人の魂そのものと捉えられてきました。単なる筆先や口先の表現ではなく心の叫びと言われるものです。東日本大震災は平成23(2011)311日生じました。その大震災と政治について、蠢く人間の様々な姿、レベル、性質、品性、精神などについて、あらためて考えてみたいと思います。

 

 38日フジTVで元原子力安全委員長の班目春樹氏 が、3.11での原発事故を「あんな人を総理にしたから天罰が当たったのではないかなって、運命論を考えるようになっちゃってます」と発言。

 

班目春樹氏が東日本大震災における原発事故対応の問題点についてのインタビューに答えたなかで「天罰」と称する場面がありました。自らの対処は「間違ったことは言っていない」としましたが、時の総理・菅直人氏については「マッカーサー」気取りだとして非難しています。

 

 わたしは、目くそ鼻くそ、菅首相、斑目委員長ともに責任感皆無の特殊な感覚の持ち主だろうと思っています。いまだに自分自身は悪くなかったのだと言い聞かせているようで、わたし達の常識を遥かに超えているのではないでしょうか。

 

 斑目氏は、あの大事故を他人事のように話し切実感がないように思えましたが、菅元首相の特異な体質への容赦ない口撃は、当事者であっただけになかなかリアル感があります。あの大災害の時、当時の菅首相は、何とパフォーマンス(人目を集めるための派手な行動)第一に行動したために災害を大きくしてしまったそうです。首相になっても市民運動家の体質が抜けることは無かったのでしょう。

 

 菅元首相が、国民の生命を歯牙にもかけていない(無視して相手にしない)ことは、かつて、日本人を北朝鮮に拉致した実行犯である辛光洙(シン・グァンス/韓国の政治犯/北朝鮮スパイ)の釈放嘆願書に署名したことでもわかります。

 

 菅直人氏は、拉致被害者、拉致被害者ご家族よりも拉致実行犯に心を寄せるメンタリティの持ち主であり、そのような人物がわが国の首相だった時に、東日本大震災が生じたことが悲劇に悲劇を重ね、不幸に不幸を重ねたと言えるでしょう。

 

 しかし、そのような人物を首相にまで押し上げたのは、メディアに煽られたわたし達有権者であるということを肝に銘じなければなりません。

 

 さて、天罰と言えば、当時の石原都知事も同じ言葉を発しました。

 

 『被災された方にはですね、非常に無残な言葉に聞こえるかもしれませんが…津波をうまく利用して、我欲をうまく洗い流す必要がある。積年にたまった日本人の心の垢を。これはやっぱり天罰だと思う。』(2011/3/15)

 

 記者との質疑応答のなかで「これは日本にたいする天罰ですよ」「大きな反省のね、一つの要素になるんじゃないですか。それしなかったらね、犠牲者だって浮かばれないと思いますよ」と発言しています。

 

 当時、石原氏は「天罰」という発言だけがクローズアップされて叩きまくられましたが、別に、犠牲者に天罰が降ったと言うことは言っておらず、国民全体で我欲を反省するきっかけにしたいと述べたものだと思います。

 

 古来、天変地異は、異常、異様な政治に起因すると考えられ、天神地祇(てんじんちぎ/あらゆる神々)に深い祈りを捧げる祀りを大切にしてきました。そういう謙虚な姿勢、それが政治にかかわる者、為政者の心構えでもありました。

 

 未曽有の大災害に遭遇したわたし達は、ここで今一度、静かに反省することが求められているのではないでしょうか。俯仰天地に愧じず」(ふぎょうてんちにはじず/天の神に対しても地の神に対しても、何ら恥ずべきところがなく公明正大であること/孟子) 我欲を押さえ、邪心を捨て、不正義に捉われず、不道徳な道を歩まず、国民のための堂々とした清澄な政治を実現するためにも。

 

 同じ「天罰」という言葉でも、斑目春樹元原子力安全委員長と石原慎太郎元都知事では大きな差異を感じます。斑目氏は個人的な怨念から、石原氏は国民の精神の観点から、この言葉を取り上げたものだと思います。

 

 第2次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)後70年、復興から高度成長、失われた20年、行くべき道がぼんやりしたままの現在の世の中は、やはり、問題を多く抱えていると思います。

 

 義務は少なく権利は可能な限り大きく、傲慢な言動の横行、既得権にしがみつく根性、公よりも私、静かな議論よりも怒鳴り合い、パフォーマンス至上主義、国民よりも市民、負担は少なく恩恵は多く、国の安全は二の次三の次、偏向著しいマスコミと教育。反日主義の横行などなど…。

 

 東北大震災、原発事故から5年。今、真剣に考えなければならないことは、政治統治システム、政治姿勢の在り方についてではないでしょうか。わたし達の国、日本という国が劣化し、弱体化しつつあることは衆目の一致する処であり、その流れを食い止めるためにも、歴史に学び、叡知を結集し、そして、何よりも大切なことは、公(おおやけ)のために力を尽くしあうことだと思います。

 

 その根本は何と言っても「憲法の改正」です。そこから“新しい日本を創造する”一歩にすべきだと考えます。今こそ、現行憲法を70年間不磨の大典にしてしまった『惰性の精神』をただすべきではないでしょうか。非常事態法制の規定さえ無い憲法で、荒れ狂う東アジア情勢を乗り切れるとは思えません。

 

 みなさんはどのようにお考えでしょうか。

 

次回も
時事エッセー
です

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コメント

初めてのコメントです。何時もブログを拝読させて頂いております。
さて、石原慎太郎氏の問題に触れられておられますが、「東日本大震災の津波は国民の我欲を洗い流す天災事変は、やっぱり天罰だと思う。」とのこと。「(能登半島地震について)震度6の地震がきたって、ああいう田舎ならいいんです。」石原氏の本性を見たような気がします。
また、「ぼくは天皇を最後に守るべきものと思ってないんでね」とか「君が代は嫌いなんだ」。石原氏は保守として活動いてますが、言動には大いに注意しておくべきだと思います。

投稿: 渡邉啓二 | 2016年3月20日 (日) 08時51分

毎金曜日に頂くブロッグから都度鋭いご見識をお伝え頂ききながら長らく応答を失礼いたしております。今回のご見解も心して拝読させて頂ききました。お説の様に日本はある意味で70年間の忍耐(呪縛)から自らの意思に立ち戻るべき重大な時代を迎えているのだと自覚しながら、一方現政権に極めて強引なメデイア規制(世論誘導)に国家的危惧を強くしているのは小生の偏見かとの自省の繰り返しの日々です。

投稿: 岡村昭 | 2016年3月18日 (金) 11時03分

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