「江戸吟行」…灘五郷の下り酒の地を巡る!
586回目のブログです
“うちしめり あやめぞかをる 時鳥 鳴くや五月の 雨の夕暮れ”
藤原良経(平安末期~鎌倉初期・新古今集仮名序作者)
しっとりと湿って、軒に挿したあやめ(端午の節句の菖蒲のこと)の薫がする。ほととぎすの鳴く五月の雨が降る夕暮れ時よ…。
四季を詠った和歌は数えきれないほどありますが、この歌は四季歌として美しい響きとしっとりとした情感を覚えさせてくれる名歌のひとつと言われています。
先日、1拍2日で東京に出向きました。学生時代の気の置けないOBが20数名、東西から集まり、産業考古学的な考察と歴史散策と吟詠を兼ねた、洒落た「江戸吟行」に参加したものです。
吟行ですから、漢詩を吟ずるか、和歌を朗詠するか、あるいは詩を歌うかしなければならないのですが、初日は、激しい雨でしたのでそれは取りやめとなり、産業考古学の立場からの江戸歴史散策と相成りました。
(1日目)東京晴海集合 ⇒ 江戸クルーズ(2時間・隅田川―明石町/住吉神社/「江戸湊」など) ⇒
明石町周辺散策(霊岸島・新川公園・河村瑞賢屋敷跡) ⇒ 日本橋駅(煕代勝覧図絵) ⇒ 懇親会 ⇒ ホテル
(2日目)深川不動尊 ⇒ 富岡八幡宮 ⇒ 昼食 ⇒ 深川江戸資料館 ⇒ 清澄庭園 ⇔ 芭蕉像 ⇒ 芭蕉記念館 ⇒
都営地下鉄森下駅解散
初日は、生憎の雨。そぼ降る春雨であれば、新国劇の月形半平太にならって“春雨じゃ濡れて行こう”という余裕もあるのですが、かなりきつい雨でしたから、そこまでは至りません。
とはいうものの、江戸クルーズ、貸し切りの船で隅田川をゆったりと遊覧する気分はなかなかのものです。高層ビルの林立、多くの美しい橋、川の両岸に植えられた緑豊かな樹木、古くに掘削され造られた運河、それに加えての墨田のゆったりとした流れ、…これらのすべてが、地上から見る景色とは格別に異なって見え、江戸・東京の人達が歴史の流れのなかで、大地に根を張り、海や川に恩恵を受けてきている様子が肌に実感できました。
クルーズ船では、東京産業考古学会のメンバーでもあるOBが28ページに及ぶ自作の解説書をもとに、わかりやすく、ユーモアも交え、該博な知識と豊かな教養を披瀝してくれました。そのうち、記憶に残る興味ある話を記したいと思います。
・日本酒の名産地である灘五郷(なだごごう/神戸市東灘区・灘区と西宮市)から、上等の酒が、東下りとして、樽廻船で新川河岸に送られており、その地が「江戸湊」と言われ、周辺には、関西の地名が数多く残っている。播州明石の漁師が移り住んだという「明石町」、大阪市西淀川区佃から33名の漁師が移り佃煮をつくった「佃」、大阪の佃にあった住吉神社の分霊を祀った「住吉神社」。東西の関係の深さは海の繋がりによるもの。
・江戸時代の食生活は魚と野菜。調味料は、砂糖・塩・酢・醤油・味噌の5つ。江戸日本橋には全国の最上品が集結した。
・酒も同じことであり灘五郷の品が珍重されたのも上方の酒は美味しかったことに尽きる。「下り酒」が最上の評価を受けた理由は、精米度を上げ寒造りで「灘の生一本」としての品質を保ったこと。それには、海運の発達が貢献しており、運搬日数が短期化するほど酒の腐敗を避けることができた。また、運搬日数が「短いことは価格を抑えることにもなったのである。
・雑貨全般を載せるのが菱垣廻船であり酒樽専用が樽廻船。江戸時代、最初はすべて菱垣廻船であったが、樽は重いため船底に積まれ、雑貨は上に載せられる。少なくない海難事故の時は雑貨を捨てて船を守る。しかし海難の損害は組合全体で均等負担となっていた。そこで、酒樽の荷主は酒樽だけだと重心が低くなり、リスクも低く、加えて、早く荷役ができ、酒の腐敗を避けることができると考えたため、樽廻船が始まったのである。(なかなか面白い話ですね)
・(樽廻船オリンピック)大阪や西宮の廻船問屋が、14艘、千石船を仕立て、松の内に「新番酒船」を催し、江戸への一番乗りを競った。帆や操船術の改良などもあり、3~4日で航海したと言うから驚き。(因みに、忠臣蔵でおなじみの早水藤左エ門と萱野三平は、江戸~赤穂を早籠で丸4日と14時間かけています)
その他、月島や晴海の埋め立て工事の具体的な方法などについての解説も聞きましたが、興味は尽きることはありません。
また、今、話題になっている「豊洲市場」を水面から見上げました。豊洲問題は「安全」と「安心」の区別ができない政局第一主義の都知事のもとで混迷を極めています。この堂々たる建物がその存在を不当に無視されているため、降りしきる雨は理不尽な世の中を悲しんでいる涙のように見えました。
2日目は、天候は回復し、爽やかな風を顔に浴びながら、いわゆる深川を中心とした江戸名所を散策しました。
■ 成田山深川不動堂(深川不動尊)
千葉県の成田山新勝寺の東京別院。元禄16年(703)の成田不動の出開帳を始まりとします。本堂の外壁には一面に梵字が散りばめてあり見上げるものを圧倒。中には不動明王や大日如来の天井画がありますが、わたしは、珍しい簡単な心願写経を奉納しました。
■ 富岡八幡宮
寛永4年(1627)創建。祭神は応神天皇で、古くから庶民に「深川の八幡様」として親しまれています。境内には「横綱力士碑」「大関力士碑」「強豪関脇力士碑」「巨人手形・足形碑」「巨人力士身長碑」などが建立されており相撲との関係が深いことを窺わせます。試みに、わたしは巨人力士の身長碑と比較してみましたが、月とスッポン、釣鐘に提灯、2m30cmの大男とは端から比べ物になりません。
「伊能忠敬の銅像」江戸時代の測量家である伊能忠敬は、測量に出かける際は、安全祈願のため富岡八幡宮に必ず参拝に来ていたことから、銅像が建立されたそうです。
深川祭は有名であり、境内には日本一大きく豪華な神輿が置かれていました。
さて、ここで昼食。門前茶屋で評判の「深川めし」を軽くビールでのどを潤しながらいただきました。なかなかの美味でした。
■ 深川江戸資料館
江戸時代の深川の街並みを実物大で展示。一見の価値があります。
■ 清澄庭園
三菱財閥の創始者である岩崎彌太郎が造園したもの。約3万坪の
広大さを誇り「大泉水」と日本全国から集めた「名石」は見事な
ものです。“古池や かはず飛び込む 水の音”が刻まれた大きな
芭蕉の石碑もあります。ゆったりとした気分になれる名園だと
思います。
■ 芭蕉像(芭蕉庵史跡展望庭園)
隅田川の遊歩道沿いにある芭蕉像。隅田川を眺めていたであろう往時の穏やかな俳聖・芭蕉の姿が偲ばれます。
■ 芭蕉記念館
芭蕉に関するあらゆる資料を展示。特に人気があるのは紀行文「おくの細道」に関する貴重な資料だと言われます。江戸から奥州、そして岐阜大垣まで2,400kmの壮大な旅。学生時代に読んだ冒頭の「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」を思い起しました。ゆっくり鑑賞すべき記念館です。
それにしても、江東区の芭蕉への思い入れはすごいものがあります。案内図を見ると、江東区内に芭蕉に関連する句碑が21ヶ所もありますから。
これで1泊2日の江戸吟行は無事終了。1日目9,000歩、2日目11,000歩、合計20,000歩の歴史散策兼ウォーキングであり、心地よい疲れともに教養をわずかでも高めることができたことに、大いに満足しています。
みなさんにも、近間であれ、遠方であれ、歴史の散策をお薦めします。
次回は
時事エッセー
です。
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