「世は嘘言ばかりなり」… 徒然草に見る現代世相!
600回目のブログです
“つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、
心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、
あやしうこそものぐるほしけれ”
(吉田兼好「徒然草」序段)
(現代語訳)
することもなく手持ちぶさたなのにまかせて、一日中、硯に向かって、心の中に浮かんでは消えていくとりとめもないことを、あてもなく書きつけていると(思わず熱中して)異常なほど狂ったような気持ちになるものだ…。
『徒然草』は、今から約700年前、鎌倉時代末期に吉田兼好(兼好法師・卜部兼好)が書いた随筆であり、清少納言の『枕草子』鴨長明の『方丈記』と合わせて、日本三大随筆と言われます。
今年も、いよいよ暑い盛りを過ぎ、秋の気配を感じさせようとしています。しかしこの夏において、多発する雷や竜巻、大粒の雹(ひょう)、8月の連日の雨、集中豪雨、迷走する台風など、何か異常気象の現象が続発していることが気にかかります。
この異常と思われる気象は、宇宙と地球の「自然の現象」であり、避けられないものであるかも知れませんが、歴史的にみれば、人間社会において、政治・まつりごとが上手くいかない時に起きる現象であるという側面もあります。
そういう観点から見て、現状の政治は十分にその機能を果しているのかどうか、いささか覚束ないのではないかと思うのはひとり私だけではないと思います。
今や世界を俯瞰してものごとを判断していかねばならないことは常識中の常識となっており、明日を読めない激動する世界情勢のなかで、政治を司る人々やその周辺の人々は“世界のなかの日本”を強く意識し、わが国の進路を確かなものにしていく見識と勇気が求められます。
【現在の重大な課題】
・北朝鮮の核ミサイルの脅威
・北朝鮮の日本人拉致
・中国の脅威(尖閣/沖縄・反日)
・韓国の不条理(反日・約束不履行・竹島占領・北との親和)
・ロシアの北方領土占領
・働き方改革
・移民と出入国管理
・デフレ脱却
・教育改革(教科書・高等教育・文科省)
・その他
これだけの極めて重大な課題があるにもかかわらず、相変わらず「森友」「加計」「豊洲/築地」という政略・政争的議論のみしている姿は異様以外のなにものでもありません。
特に、北朝鮮の対米・対日一触即発の危機が生じているにもかかわらず、わが国の政治家やマスコミがこれを真実の危機と捉えたようには全く見えません。これを危機と言わずして、何を危機と言うのでしょうか。1発かまされたら、その時“あぶないかなあ…”と考えればいいと言うのでしょうか。
700年前の兼好法師は、世相を眺め、硯の前で“あやしうこそものぐるほしけれ”(異常なほど狂ったような気持ちになるもの)との感懐を持ちましたが、現代もそっくりではないでしょうか。第73段に、世は嘘言ばかりなりとのエッセーが記されており、700年前と現代があまりにも相似していることに驚きを隠せません。700年経っても感じさせる瑞々しい感性だからこそ、真の古典だと言えるのでしょう。
【徒然草73段】
(原文)世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆虚言(そらごと)なり。あるにも過ぎて人は物を言ひなすに、まして、年月過ぎ、境も隔たりぬれば、言ひたきままに語りなして、筆にも書きとどめぬれば、やがて又定まりぬ。
(現代語訳)世に語り伝える事は、本当のことはつまらないからであろうか、多くは皆虚言である。実際より大げさに人は物を言い作る上に、まして、年月過ぎて、場所も隔たっているのだから、言いたいままに語り作って、筆にも書きとどめてしまえば、すぐに又それが定説になってしまう。
(原文)道々の物の上手のいみじき事など、かたくななる人の、その道知らぬは、そぞろに神のごとくに言へども、道知れる人は更に信もおこさず、音に聞くと見る時とは、何事もかはるものなり。
(現代語訳)それぞれの専門の道に達した達人の技なども、道理を知らない人でその道を知らない人は、やたらに神のように言うけども、道を知っている人はまったく信じる気も起こさない。評判に聞くと実際に見るとは、何事も違うものである。
(原文)かつあらはるるをも顧みず、口にまかせて言ひ散らすは、やがて浮きたることと聞ゆ。又、我も誠しからずは思ひながら、人の言ひしままに、鼻のほどおごめきて言ふは、その人のそらごとにはあらず。
(現代語訳)一方ではすぐ嘘とばれるのを顧みず、口に任せて言い散らすのは、すぐに根拠の無い話とわかる。又、自分も本当らしくないとは思いながら、人が言うままに、鼻のあたりをひくひくさせて言うのは、その人自身から出た虚言ではない。
(原文)げにげにしく、ところどころうちおぼめき、よく知らぬよしして、さりながら、つまづまあはせて語るそらごとは、おそろしき事なり。
(現代語訳)いかにも本当っぽく、所々話をぼかして、よく知らないふりをして、そうはいっても、つじつまは合わせて語る虚言は(いかにも本物っぽく信じやすいので)恐ろしいことである。
(原文)我がため面目あるやうに言はれぬそらごとは、人いたくあらがはず。皆人の興ずる虚言は、ひとり「さもなかりしものを」と言はんも詮なくて、聞きゐたるほどに、証人にさへなされて、いとど定まりぬべし。
(現代語訳)自分にとって面目の立つように言われた虚言は、人は大きくは抵抗しない。皆人が面白がっている虚言は、一人「そうではないようだが」と言っても仕方ないので、黙って聴いているうちに証人にさえされてしまい、いよいよ嘘が事実のようになってしまうのだろう。
(原文)とにもかくにも、そらごと多き世なり。ただ、常にある、めづらしからぬ事のままに心得たらん、よろづ違(たが)ふべからず。下(しも)ざまの人の物語は、耳おどろく事のみあり。よき人は怪しき事を語らず。
(現代語訳)とにもかくにも、虚言が多い世の中である。ただ、常にある、めづらしくも無い事のままに心得れば、万事間違えることは無い。下々の人の語る物語は、耳おどろくような面白い話ばかりである。まともな人は怪しい事を語らない。
(原文)かくはいへど、仏神(ぶつじん)の奇特(きどく)、権者(ごんじゃ)の伝記、さのみ信ぜざるべきにもあらず。これは、世俗の虚言をねんごろに信じたるもをこがましく「よもあらじ」など言ふも詮なければ、大方はまことしくあひしらひて、偏(ひとへ)に信ぜず、また疑ひ嘲るべからず。
(現代語訳)そうはいっても、聖人伝・高僧伝などはそうむやみに疑うべきものではない。こういう話は世俗の虚言を心の底から信じるのもばからしいし「ありえない」など言っても仕方ないことなので、大方は本当のこととして受け取っておいて、熱心に信じてはならないし、また疑い嘲ってもいけない。
“とにもかくにも、虚言(そらごと)多き世なり”と吉田兼好は世の中を喝破していますが、よくよく見れば、これはまさしく現在の世相でもあります。国会の審議、議論を聞いても、いかに虚言、そらごとが多く、それをもとにした“口論”ばかりですから、わが国に迫りくる危機に対しては、全くと言うほど不感症、鈍感になっていると言えるのかも知れません。
もう少し真摯な姿勢での政治と、虚言(そらごと)多きマスメディアの少しでも事実(The
Facts)・真実に基づいた報道を望みたいものです。
みなさんはどのようにお考えでしょうか。
次回は
時事エッセー
です。
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コメント
600回目のブログおめでとうございます。「継続は力なり」と申しますが,継続するためには,人知れない努力が必要です。改めて敬服申し上げます。世の中には情報が溢れ,何が真実なのか見極めるためには,己の見識が必要です。そのためには日頃の修行が大事です。自分の立つ位置をどこに置くかによって,判断が変わります。古の為政者は天変地異を見ては,己の仁徳の至らないことを反省して,政務に励んだといい,天皇は譲位を決意されたともいいます。西郷南洲は「敬天愛人」をモットーとしました。謙虚な気持ちを忘れないようにしたいものです。
投稿: 安見隆雄 | 2017年9月 1日 (金) 08時49分
兼好法師の世評は,いつの時代にも新鮮に見えます。それはいつの時代になっても,人の進歩は見られないということでしょうか。温故知新,昔の言行を謙虚に学んでいれば,同じような愚かな過ちは繰り返さないで済むのではないでしょうか。ありがとうございました。
投稿: 安見隆雄 | 2017年8月25日 (金) 08時43分