“忖度”…この美しい言葉を殺すことなかれ!
622回目のブログです
“国を建つるには 千年の歳月も足らず
それを地に倒すには 一瞬にして足らん”
バイロン(1788-1824英国の詩人)
古くには睦月(むつき)と称していた1月も、早いものでもう終えようとしていますが、世の中の動きはますます変動の加速度を強め、政治も経済も、軍事も技術・システムも一瞬の油断も許されない状況になってきているように思えてなりません。
そんななかで、旧臘(きゅうろう・昨年12月)、平成29年度(2017)流行語大賞の年間大賞に選定された「忖度」という言葉が、年を明けても、政界では相変わらず引きずり回されると共に、一般国民には戯れ語として使われています。
この「忖度」(そんたく)という言葉について、今一度、考えてみたいと思います。
「忖度」の意味について辞書を引いてみましょう。
【忖度】= 他人の心を推し測ること
(デジタル大辞泉・新潮国語辞典・他)
どの辞書も同じような説明となっています。したがって、もともと「忖度する」という言葉は、他人の気持ちを敏感に感じ取り、慮る(おもんぱかる)ということであり、思いやりや優しい気持ちの道徳に関係あるものです。
『忖』は“りっしんべん”があり人の心を推測すること。『度』は“たく”と読む場合は、はかること。両方とも「はかる」ことであり、特に「心を推し測ること」を意味します。
「忖度」という言葉の由来について。
「これは伝統的なことばです。中国古代の『詩経』にも出てくるので、『昔から使われていることば』と表現するのが最も妥当です。日本にも10世紀から例がありますが、それ以前に中国から入って来たものでしょう。従来は“母の心を忖度する”“彼の行動の意図を忖度してみた”などと<単純に相手の心を推測する>>場合にも普通に使われていた」(三省堂国語辞典の編集委員/日本語学者・飯間浩明氏)
「忖度」という語が最初に出たのは中国古典の詩経にあります。
『他人有心、予忖度之』(他人こころあり、われ之を忖度す)
この章句は「孟子・梁恵王上」にも引用されており『詩経に“人の心をば、われよくおしはかる”…云々』とあるところから見て、引用に値する素晴らしい言葉だったと言えるのでしょう。
ところが、最近のマスコミは、この言葉を「権力者におもねって、その意をくみ取る」あるいは「上役などの意向を推し測る」場合に使うようになり、おべっか、へつらい、上の者に気に入られる、などの悪い意味、不道徳、不正の言葉として拡散しています。本来の意味とは異なる、あきらかに間違った使い方をしています。
また、大阪府の松井一郎知事が忖度には「良い忖度と悪い忖度」があると発言しましたが、もともと忖度には良いも悪いもなく、単に他人の心を推測すると言うことに過ぎません。
普通に考えてみてください。忖度のない人間関係、社会はありません。親子、夫婦、兄妹姉妹、ご近所、同僚、先輩、後輩、上司、部下、男女、先生と教え子、政治家、裁判官・検事・弁護士、その他、どんな関係でもそうだと思います。
そして、わたし達日本人は、人だけではなく、植物や動物、あらゆるものの「気持ち」を考え、それに配慮しながら生活してきました。これこそが日本文化、日本文明の伝統的なひとつの大切な要素ではないでしょうか。
その美しき姿を、小学校3・4年の道徳の副教材「心のノート」に見てみましょう。
(自然と仲よくくらす)
【植物も動物もともに生きている】
3年生になったとき、クラスのみんなできくを育てることに
なりました。
わたしは、きくをだいじに、だいじに育てました。
秋が近づいたとき、きくの花はつぼみをつけました。
ある夜、ねむっているとき、風が強くふきました。
つぎの朝、学校に行くと、きくのくきが1本折れていました。
わたしは、むねがきゅんとなりました。そして、自分がけがをした
ときのことを思い出しました。あのとき、お母さんがきずの手あて
をしてくれたので、いたみがいっぺんにひいていきました。
わたしは、きくにそっと話しかけてみました。
「いたいだろうね。すぐによくなるからね。」
わたしは、ティッシュペーパーで、そっとほうたいをしました。
きくのつぼみは、ひとこともへんじをしませんでしたが、
しゃんと空にむかって生き生きしはじめたようです。
(これは3年生のとし子さんの作文です。とし子さんは、
きくが自分と同じように生きていると思っているようですね。)
作文にある小学校3年生の、植物である菊に対する気づかい、おもんぱかり、配慮、忖度は、素晴らしい日本ならではの美徳を示しています。
その「忖度」という言葉が今回の騒動で汚れてしまいました。汚したのは誰なのか、言うまでもなくマスメディアです。こんなことでは、マスメディアは浅はかで傲慢なエセインテリと言わざるを得ないでしょう。言葉を生業(なりわい)にしている言論人、マスメディアは伝統ある美しい言葉を殺すべきではなく、生かすべきであり、大いに反省してもらいたいと考えます。
忖度の対極にディベートがあります。ディベートはYes or Noの討論であり、とことん、相手を負かすまで、勝つためにはどんな激論も厭いませんので、日本人は、どうもディベートが苦手だと言われています。そうとすれば、わたし達日本人は、ディベートを克服することも必要でしょうが、幅広い忖度の精神を発露することをより重視した方が良いように思えます。
他人の気持ちを推し測る、わが国の伝統ある「忖度」の精神は「和」につながるものであり、世界に誇る上流の文化であり、美徳ではないでしょうか。
みなさんはどのようにお考えでしょうか。
次回は
時事エッセー
です。
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コメント
日本は明治維新時に欧米語を翻訳するのにあたってシナの古典に相当しそうな漢語を求めて、死語に等しかった古語を現代用語として蘇らせた。また「をかし」や「大和心」のように、時代と共に徐々に変質した言葉もある。こうした言葉の変化は社会の変化に対応したもので、万人を納得させうる。だが政治や宗教など特殊な主義思想をもった権力者が言語の意味を強制的に変質させる国や社会は少なくない。中国などの独裁国家はその典型である。権力者が好まない言葉は使用禁止とし、残った言葉も善悪のイメージを持たせることで、大衆の愛国心や憎悪の感情を自由に操るのである。戦後、多くの知識人がソ連や中国を理想の国としたが、「社会主義=善」「資本主義=悪」の単細胞に染まった脳をもった学者やマスコミ人は「非社会主義政党や政府=悪」としないと自身の精神が落ち着かない、一種の自己中・独善病に罹っている。青年時代に学んだ中ソの教宣法を「世界の憧れとなった現代日本」で実践し続けるのもそれが彼らの生き甲斐だからである。モリカケ騒動も、「忖度」もその一例である。
投稿: 齋藤仁 | 2018年1月26日 (金) 10時17分