偉大なるかな「聖徳太子」!…その不在論を斬る
629回目のブログです
“家にあれば 妹が手まかむ 草枕 旅に臥(こや)せる この旅人あはれ”
聖徳太子(万葉集・挽歌)
家にいたなら妻の手を枕にしているだろうに、草を枕の旅に倒れているこの旅人の可哀想なことだ…。
万葉集の中に聖徳太子が詠まれた歌として伝わるものですが、哀しみ憐れみの情を心静かに詠いあげた素晴らしい万葉歌ではないでしょうか。わが国は、万葉集をはじめ膨大な歴史的遺産を営々と今に引き継いでおり、その中に“偉大な精神”が含まれていることを認識しなければなりません。
今、わが国の政治は、いわゆるモリ・カケ問題で異例の展開となり大もめにもめていることは周知の通りです。どのように収束し本来の政治に戻っていくのか皆目分かりませんが、着目すべき点は、現在官邸(安倍政権)の力が強力になっている現状のもと、官邸と与党、官邸と財務省(最高位省庁)、省庁と省庁、などの権力の綱引きの過程で、野党・朝日・官僚・一部与党政治家などが結託し、本格的な「安倍政権降ろし」に着手したことがはっきりしてきたことです。
しかし、わが国の周辺はいよいよ緊張感を増し、いつ何が生じてもおかしくない状況にあるとすれば、国内の政争は一刻も早く収束し、力のある体制で、国難に対処していく姿勢を明確にすべきであることは言うを待ちません。そして、政治においては、わが国の歴史に“偉大な精神”というものをほんの僅かであっても刻んでいくという営為が求められているのではないでしょうか。国家の危機が目前に訪れているのですから。
そうは言うものの、世の中はおかしな現象で溢れています。たとえば、近年、歴史の上で偉大な足跡を残した人物などを蔑視・軽視したり、罵倒したりすることが増加していることです。
明治維新は誤りであったとか、坂本龍馬や吉田松陰を教科書から抹消させようとしたりとか、聖徳太子不在論を広めたりという具合です。
ここで、そのうちのひとつである「聖徳太子は存在しなかった」という論について考えてみたいと思います。
聖徳太子(敏達天皇3年<574>~推古天皇30年<622>)は飛鳥時代の皇族であり政治家であり、その偉大さはわが国の歴史においても燦然と輝いています。
・十七条憲法の制定(世界ではじめて“国家の憲法”を創る)
・冠位十二階制の制定(世界初の能力による官僚組織を創る)
・遣隋使派遣(隋との対等外交の実現)
・日本神道と仏教の共存(両者の興隆と融和をはかる)
“日本の心意気”と言えば、何といっても聖徳太子。聖徳太子はわが国最初の成文法である十七条憲法で「和を以って貴しとなし」とし、話し合いを最も重要なポイントに掲げましたが、一方、外国に対しては、毅然とした態度を堅持し、凛とした姿勢で臨んだのです。遣隋使として小野妹子が隋の煬帝に渡した国書の最初の言葉を、ここで再度確認しましょう。
“ 日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す
恙(つつが)無きや
”
聖徳太子の凛とした姿勢が貫かれているこの言葉は何度読んでも感動を覚えます。
昨年、面従腹背を座右の銘とする前川次官がいた文科省は、この偉大な聖徳太子は存在しなかったという論にもとづき、小学校社会科では「聖徳太子(厩戸王)」(うまやどのおう)中学校では「厩戸王(聖徳太子)」に変更しようとしました。しかし、パブリックコメントで「聖徳太子」の書き替えを行うべきではないとの意見が大半であり、目論見は潰えました。
不在論者は、聖徳太子
⇒ 厩戸皇子 ⇒ 厩戸王 ⇒ いずれは抹消? を目論んでいたものと思われます。しかし「厩戸王」は大東亜戦争(第2次大戦後)後の用語であり、問題外。ここに教科書をめぐる反日イデオロギーの蠢きを見て取ることができます。
聖徳太子は、生存されていた時は「厩戸皇子」と称されており「聖徳太子」は贈り名、すなわち「諡号」(しごう・貴人や高徳の人に死後おくる名前)です。
たしかに、生存時、聖徳太子という「呼称」は存在しません。だからと言って聖徳太子そのものの存在を否定することはできないのではないでしょうか。話は少し異なりますが、昔の人の改名はどうでしょうか。たとえば、NHK大河ドラマに登場する明治維新の立役者・西郷隆盛は、小吉・吉之介・善兵衛・吉兵衛・吉之助・隆永・武雄・隆盛といろいろ変化。また、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門、大島吉之助などの変名もあり。これ、皆同じひとりの人物であり、替え玉でもありません。聖徳太子にいちゃもんをつけるのは、完全に屁理屈というもの。
また、後世の人々がつけた名称は正しくなく使わないというならば、司馬遷の「史記」はどうしますか。司馬遷が自ら付けた書名は「史記」ではなく「太史公書」。教科書では「史記」のまま、名称変更の動きさえありませんが、シナ中国のものはそのままにするのでしょうか…。
聖徳太子は高徳、偉大なお方であったがゆえに、わが国のいたる所で太子ゆかりのお寺や施設および地名があり、国民や民衆が、太子を尊崇、崇敬、信仰してきていることははっきりしています。
また、偉大な人物にはいわゆる伝説が付き物です。尊崇しているだけに、より大きく、より美しく、より知的であると思いたくなるもの。これだけ慕われていればこそ「伝・聖徳太子」や「聖徳太子伝説」がいたるところに存在。これは真に結構なことではないでしょうか。
偉大な人は偉大。それを認めたくないのは自分の小ささからくる嫉妬心からとしか思えません。そして、過去よりも現在の方が優れているという進歩史観も間違いです。古にも、現代にも、偉大な人は存在するのだということを素直に認めるべきです。
学校では聖徳太子はいなかったと教える先生も一部にいると報道されています。あえて歴史の嘘を教えるのは、ある種のイデオロギー的底意があるためだと思わざるを得ません。
わが国の歴史文化、高い精神文化を護るという観点から、学校教育では
・「聖徳太子」
・「聖徳太子(厩戸皇子)」
と教えなければなりません。
歴史はわくわくするロマンでもあります。「偉大」なものを「矮小化」したり「卑小化」したりすることは歴史への冒涜ではないでしょうか。偉大なものは偉大なものとして誇りに思うことが国民の素直な感情だと思います。
近年、美しいもの、高貴なもの、などを平気で汚すことに快楽を覚えるという風潮が一部にありますが、それは、精神の汚染から来るものではないかと推測します。
さて、さいごに、話題が変わり、聖徳太子が最高額の一万円札に登場したのは昭和33年(1958)~昭和59年(1984)、この時代は景気のいい時代でした。わが国では縁起を考えますから、それにならって、聖徳太子には今一度、最高額の紙幣(一万円札or五万円札or十万円札)にご登場たまわり、景気の浮揚、日本国の発展と安定に目に見えない力を貸していただこうではありませんか。日銀の黒田総裁にはぜひご検討をお願いしたいと思います。
みなさんはどのようにお考えでしょうか。
次回は
時事エッセー
です。
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コメント
聖徳太子が一万円札から消えた当時、五万円札、十万円札の発行の話題があり、それに聖徳太子の肖像を入れるため、という話もあったかに記憶する。いずれにしても大和朝廷という史実上確定した時代からもすでに千五百年以上経ている我が国の紙幣の肖像がすべて明治以降の人物というのは腑に落ちない。建国以来そして現憲法においても第一条に「日本国の象徴」である天皇家の方を高額紙幣の肖像とすることで、国の内外に日本国というものを意識させることができるのではないか。筆者の提案に全面的に賛成。
投稿: 齋藤仁 | 2018年3月23日 (金) 08時36分