「新聞倫理綱領」は生きているか!
637回目のブログです
“月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして”
在原業平(平安初期・古今和歌集)
この月は以前の月ではないのか。春は去年の春と同じではないのか。わたしひとりだけが昔のままであって、月や春やすべてのことが以前と違うように感じられる…。
月や春がかつてと同じであることは疑いのない事だが、自分の心が変わったからなのか、それらが以前と違うように見えて仕方がないと感じた在原業平の心境を、現代のメディア世相に当てはめてみたいと思います。
新聞はまだまだ主力のメディアですが、近年の記事を見れば、かつてとは大きく変わり、捏造、虚報、誤報、印象操作の報道記事や異常なコラムが闊歩しているように思えて仕方ありません。
しかしながら、新聞が報道の論調を少しも変えていないことを考えれば新聞は元のままであり、反対に、私自身の心が大きく変わったからそう思えるのかも知れません。はたしてどっちなのでしょうか。
最近、企業や官庁で、不法、不正なことが続出し、いわゆるコンプライアンスが周知徹底されていないことが指摘されています。企業にとってのコンプライアンスは企業倫理、企業規律とも言われている重要な課題であることは言うまでもありません。
とは言うものの、単に掲げておくだけでは意味をなさず、現実に現場において実行されなければ絵に描いた餅になってしまいます。
日本新聞協会は平成12年(2000)、21世紀を迎え、新しい『新聞倫理綱領』を定めました。マスコミは第4の権力と言われるほど強大な権力を保持しており、新聞はマスコミの雄です。その権力を行使するに当たって、新聞倫理綱領に掲げられた崇高な精神が、発揮されているか、絵に描いた餅になっているかを吟味したいと思います。
一読、美しい言葉が並んでおり、目が眩むほどです。
【自由と責任】
表現の自由は人間の基本的権利であり、新聞は報道・論評の完全な自由を有する。それだけに行使にあたっては重い責任を自覚し、公共の利益を害することのないよう、十分に配慮しなければならない。
※「表現の自由は“人間”の基本的権利」…これは立派な言葉です。が、表現の自由のない国(中国などの全体主義国)におもねるのはどうしてなのでしょうか。たとえば、中国のチベットやウイグルへの民族的・宗教的・経済的・政治的弾圧をなぜ報道しないのか全く理解できません。
【正確と公正】
新聞は歴史の記録者であり、記者の任務は真実の追究である。報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない。論評は世におもねらず、所信を貫くべきである。
※「報道は正確かつ公正」…こんなことは決してありません。たとえば朝日。朝鮮(北と南)の報道に胸を当てるべきではないでしょうか。「従軍慰安婦問題」では捏造、虚報記事のオンパレード、世界に対して日本人を辱める報道を続け、やっと間違いを認めるも英文での訂正は行わず頬っ被り。また、今に至るも国民に対しての謝罪は行われていないと言う面妖さです。
アメリカ大統領選において、事前の選挙報道でトランプ大統領が優勢であったことを一度も報じていないという愚かしさ。常に党派とかイデオロギーで見る習慣がついているために、現実を見ることができなくなったとしか思えません。どうして、正確かつ公正と言えるのか、理解に苦しみます。
【独立と寛容】
新聞は公正な言論のために独立を確保する。あらゆる勢力からの干渉を排するとともに、利用されないよう自戒しなければならない。他方、新聞は、自らと異なる意見であっても、正確・公正で責任ある言論には、すすんで紙面を提供する。
※「寛容」という言葉の真逆の存在が一部の新聞にあります。朝日新聞社は『徹底検証「森友加計事件」朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』の著者小川榮太郎氏と出版社の飛鳥新社を名誉棄損で5,000万円の損害賠償を求めています。巨大新聞社が民間の一言論人と小さな出版社を巨額の賠償金をもって訴えるのは、言論人としてのプライドを捨て裁判所にことの善悪の判断を求めるという、実に滑稽な構図を示していると言わねばなりません。
これは、まさしく、スラップ訴訟そのものです。スラップ訴訟(Strategic Lawsuit Against Public Participation・恫喝訴訟・威圧訴訟)は先進国では法律で禁じられていますが、わが国では、現時点で法律はできていません。
強者が言論以外で弱者を恫喝する姿勢を寛容とは言わず「寛容」の言葉があきれています。朝日新聞は、あまりにも酷薄過ぎるのではないでしょうか。
【人権の尊重】
新聞は人間の尊厳に最高の敬意を払い、個人の名誉を重んじプライバシーに配慮する。報道を誤ったときはすみやかに訂正し、正当な理由もなく相手の名誉を傷つけたと判断したときは、反論の機会を提供するなど、適切な措置を講じる。
※ぜひとも、こうして貰いたいものです。実態は、適切な処置を取っているとは思えません。
【品格と節度】
公共的、文化的使命を果たすべき新聞は、いつでも、どこでも、だれもが、等しく読めるものでなければならない。記事、広告とも表現には品格を保つことが必要である。また、販売にあたっては節度と良識をもって人びとと接すべきである。
※綱領に掲げてある通り、新聞は公共的、文化的使命があるでしょう。しかし、押し紙という無駄な印刷によって環境に負荷をかけていることを認識し、環境問題を論ずるならば、自らを反省し、直ちに「押し紙」を止めるべきです。
「押し紙」とは、売れる見込みもないのに新聞社が販売店に押し込む新聞紙のこと。発行部数にカウントされており、広告、チラシ折り込み代金などの基礎数字を構成しています。まさに、詐欺行為そのもの、ペテンの類だと言えます。大手A新聞社の押し紙は内部告発で32%!もあることが明かになっています(平成29年)。
「新聞倫理綱領」は素晴らしい内容です。この通り、あるいはこれに近い内容で新聞が発行されれば、何も申し上げることはなく、社会にとっても、国にとっても、模範的存在になり得るのではないでしょうか。
現実の荒んだ姿勢から良識と美徳に溢れた綱領のレベルに早く戻ることを切望します。
(ところで、話は変わりますが、国会議員にも政治倫理綱領があるようです。現在の国会状況を見れば、倫理の香りさえ感ずることはできません。次回は「政治倫理綱領」について考えてみようかと思います…。)
「新聞倫理綱領」は死んでいる!
みなさんはどのようにお考えでしょうか。
次回は
時事エッセー
です。
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