福沢諭吉「スポーツ論」…日大アメフト事件に思う!
639回目のブログです
“「正道」を行ない、それを楽しめ”
西郷隆盛(維新の三傑)
西郷隆盛は、十の「訓え」のなかで、こうも言っています。「理不尽は理不尽のままでよい。自分が理不尽なことをせねばよい」と。
5月の好季節、報道によれば、京都では青紅葉(あおもみじ・カエデ)が見ごろになっているそうです。秋の紅葉で有名な東福寺、北野天満宮、光明寺などが、新緑の眩しさに大きくつつまれ、拝観者の心を清々しいものにしてくれるとして人気が集まっています。
わたし達は、汚濁なものよりも清浄なものに触れるべく、それが最も感じられる「自然」の若緑が豊かなところに足を運びたいと思うものであり、間違っても、汚い所へは足を運びたくはありません。
ところが、人間社会はそうもいかず、あの爽やかであろうスポーツの世界、ましてや大学スポーツの世界で、とんでもない不祥事が発生しました。普通ならば決してありえないことですが、アメリカンフットボールの「日本大学」対「関西学院大」で生じた事件を考えてみたいと思います。
■ 日大アメフト悪質タックルは監督の指示か
「最初のプレーで相手のQBにけがをさせる」
悪質なタックルは6日に都内で行われた定期戦で発生。日大選手が、無防備な状態の関学大クオーターバック(QB)に背後からタックルするなど複数回の反則行為を繰り返した。QBは右膝軟骨損傷と腰の打撲で全治3週間との診断。その後、左足のしびれも訴えたため、精密検査を受け「椎間関節のよじれによるもの」と診断された。
(2018/5/15 スポーツ報知 一部抜粋)
テレビでは、どのチャンネルも朝から晩まで、何回も何回も、この場面を連日放映していますから、ほとんどの人が映像を見たことがあるでしょう。
日大の守備選手が行ったプレーは、異常、異様であり「殺人タックル」とも言うべき犯罪行為であり、全治3週間の重傷どまりで良かったと胸をなでおろしました。場合によっては死に至った可能性もあるのです。
アメフトは、競技中の事故で、半身不随や死んだりすることもあるほど危険な競技です。そうだからこそ、あの重いプロテクターを装着してプレーし、危険から守ろうとしているのであり「無防備」な選手を背後から狙うなんて完全なルール違反であり、悪質極まりない事と断定できます。
ところが、この行為が「監督からの指示」である可能性が高いと報道されています(日大関係者は一応否定していますが真相はいずれ明らかになるでしょう)。
もしもそうであるならば、日大アメフト部の監督は全職務を辞職し、アメフト部は1年間の謹慎あるいは解散すべきではないでしょうか。なぜならば、これを許せば、アメリカンフットボールというスポーツは成り立たないばかりか、これは単なるルール違反ではなく、刑事事件に当たるほどの重大な犯罪ですから。すでに被害者から被害届も警察に出されており、この事件がどのような決着を迎えるのか、大いなる関心があります。
わが国のスポーツ界では、最近、次のような不祥事が続出していることに留意しなければなりません。
・カヌー選手の禁止薬物混入事件
・大相撲横綱のリンチ暴力事件
・レスリング界のパワハラ事件
なぜこのようなことが生じるのでしょうか。これにはスポーツに携わる人達の根本的な認識に何か間違いがあるような気がしてなりません。
そこで、慶応義塾の創設者にしてスポーツの意義を明らかにした福沢諭吉のスポーツ論をひもとき、あらためて考えてみたいと思います。
福沢諭吉は大阪の『適塾』で、わが国の先端医学を拓く蘭医の緒方洪庵に学びました。そして、諭吉は、洪庵の訳である「健康」の維持増進を重視し、運動・スポーツの意義を早くから認め、慶応義塾では、古くから塾生の健康に留意し、スポーツも盛んでした。
それを示すものとして、福澤諭吉の墨書に「身体健康精神活発」があります。身体が健康であってはじめて精神が活発になると言う意味でしょうか。また、少年に対して「精心は活発、身体は強壮(こころはいきいき、からだはじょうぶ)」という語りかけもしています。
さらに注目すべきこととして、明治26年(1893)3月22日の時事新報社説【体育の目的を忘るゝ勿れ】において、目的を忘れた体育重視に対して警鐘を鳴らしていることです。
全国の学校でも学生が体育を重んじるようになってきたのは喜ばしいことではあるが、その目的を忘れてはならない。
目的は「身体を練磨して無病壮健ならしむれば、随て精神も亦活発爽快なる可きは自然の法則にして、身心ともに健全なる者は、能く社会万般の難きを冒して、独立の生活を為すことを得るの利あるが為のみ」
ところが、世間の「体育熱心家」を見ると「身体発育が人生の大目的となってしまい、腕力抜群の称を得られればそれで全て終わり」とでもいうような感がある。
「近来、世間の体育論者の中に往々其目的を誤解する者少なからざるを見て、一言以て反省を促すのみ。」
いち早くスポーツを導入した福沢諭吉が、学生における「体育・スポーツ」の目的を忘れた姿に警鐘を鳴らしていることに驚かされます。あらためて素晴らしい教育者であることを認識しました。
また、今上陛下が皇太子殿下の折の東宮御教育常時参与でもあった第7代慶應義塾塾長・小泉信三は、スポーツについて次のように語っています。(山内教授・慶応義塾史にみるスポーツより)
【スポーツが与える三つの宝】
①「練習の体験を持つということ」
(練習によって不可能を可能にするという体験)
②「フェアプレーの精神」
(フェアプレーというのは、正しく戦え、どこまでも争え、
しかし正しく争え、卑怯なことをするな、不正なことを
するな、無礼なことはするな、ということ)
Be a hard fighter and a good loser!
(果敢なる闘士であっていさぎよき敗者である)
③「友」
小泉信三も素晴らしい言葉を残していますね。それに比べ、日大アメフト部の所業は②のフェアプレーの精神と真逆の振る舞いに見えます。殺人的なタックル、それを平然と見過ごし、容認さえもし、すぐには詫びも会見もしない日大の指導者、…フェアプレーの精神はどこにいったのでしょうか。
学生スポーツの草分けでもある福沢諭吉先生が草葉の陰で嘆いておられるように思われてなりません。
あらためて、スポーツの意義について考えたいものです。
みなさんはどのようにお考えでしょうか。
次回は
時事エッセー
です。
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コメント
ありがとうございます
投稿: 織田肇 | 2018年5月27日 (日) 08時49分