今、「政治倫理綱領」を読む!
638回目のブログです
“まつりごと 正しき國と いはれなむ
もものつかさよ ちから盡して”
明治天皇御製(明治37年)
政治が正しく行われている国であると、国民からも諸外国からも言われるように、百官諸々の司たちよ、共に力を尽して行こうではないか…。
明治天皇は9万3000余首という厖大な数の和歌を詠まれています。上の和歌を拝読しましたが、やはり天皇(すめらみこと)というお立場からくるものでしょうか、清澄な雰囲気が滲み出ており、特に、ももの司という言葉に大和ことばの高い品格を感じます。
今、国内の政治が混沌としており、その内容も下衆っぽいことをめぐっての政治的駆け引きばかりが目立ちますが、政治家も、官僚も、これで良しと思っているのでしょうか。もしもそうだとすればあまりにも情けないと言わざるを得ません。
たまには明治天皇の御製などに触れ、己の、日本人としての魂を清らかにすることなどを考えるべきではないでしょうか。そうすれば日ごろ積み重なった薄汚れた精神が洗われること間違いないと思います。真の文藝はそれだけの力を有していますから。
さて、先週のブログでは「新聞倫理綱領」を取り上げ、現在の新聞業界が綱領から遠くに離れ、あまりにも荒んできていることを指摘しました。
そこで、今週は、政治家、特に国会議員のあるべき姿、倫理について定められている「政治倫理綱領」について考えたいと思います。
「政治倫理綱領」は、時の腐敗と汚濁と理念を欠いた政治姿勢の反省から、昭和60年(1985)に衆議院と参議院の両院で制定されたものです。
一読、美しい言葉が並んでおり、目が眩むほどです。(まさしく先週の「新聞倫理綱領」と同じ印象を持ちました)
【政治倫理綱領】
政治倫理の確立は、議会政治の根幹である。われわれは、主権者たる国民から国政に関する権能を信託された代表であることを自覚し、政治家の良心と責任感をもつて政治活動を行い、いやしくも国民の信頼にもとることがないよう努めなければならない。ここに、国会の権威と名誉を守り、議会制民主主義の健全な発展に資するため、政治倫理綱領を定めるものである。
※現在の政治状況を見れば、政治家が国民の信託を受け、政治と真正面に取り組んでいるとは到底思えません。世界が、特に東アジアが激変の真っ只中にある時、小さな国内問題の足の引っ張り合いだけを生き甲斐にしている姿、…これはまさしく奇異としか言いようがありません。国会議員の最大の使命は国を守ることであり、そのためのより良き体制を議論、決定すべきではないのでしょうか。
口幅ったいようですが、政治倫理綱領を絵に描いた餅にするのではなく、自ら書いたものを神棚に供え、月に一度は真剣に口の端にのぼらせ、自覚をもって国民の信頼に応えるよう努めるべきだと考えます。
【一】
われわれは、国民の信頼に値するより高い倫理的義務に徹し、政治不信を招く公私混淆を断ち、清廉を持し、かりそめにも国民の非難を受けないよう政治腐敗の根絶と政治倫理の向上に努めなければならない。
※長期にわたってマスコミと国会で騒がれているのが「森友・加計事件」いわゆるモリ・カケ問題です。これは、安倍首相サイドの脇の甘さが原因のフラチなことなのか、戦後最大級の倒閣運動のための報道犯罪なのか、識者によって見方が異なります。
森友・加計の点については、大所、高所からの議論が必要であるにもかかわらず、枝葉末節なことにばかり目が行き、些事偏見の類が多すぎるように思えてなりません。
また、大きく騒がれた「忖度」(そんたく・他人の心を推しはかり配慮すること)は、すべての組織でも存在することであり、ある意味で美徳としなければならない面もあることを指摘したいと思います。しかしながら“瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず”(かでんにくつをいれず、りかにかんむりをたださず「古楽府・君子行」)という格言もあり、疑惑をもたれるような公私混淆は避けるようにつとめるべきではないでしょうか。
【一】
われわれは、主権者である国民に責任を負い、その政治活動においては全力をあげかつ不断に任務を果たす義務を有するとともに、われわれの言動のすべてが常に国民の注視の下にあることを銘記しなければならない。
※政治家が“主権者である国民に責任を負い”と言うのであれば、今、北朝鮮問題が急迫している時、各政党は、なぜ、国会で全党一致して「拉致被害者救出宣言」を発しないのでしょうか。北の拉致はわが国主権の侵害であり、人権の侵害でもあります。そうだとすれば、政府・国会・司法の日本国三権が団結している姿勢を北朝鮮の独裁者・金委員長に見せつけなければなりません。このような行動を取って初めて日本のリーダーと呼ぶに相応しいと考えます。まさに今が千載一遇のチャンスと言うべき。
わたし達国民は、永年に亘る拉致家族の皆さんの悲しみを思うと胸が張り裂けますが、政府、各政党、司法のトップ層は、そのような感慨に至らないほど鈍感であり、人間性を欠いているのでしょうか。政治倫理綱領に素直に従ったらどうでしょう。
【一】
われわれは、全国民の代表として、全体の利益の実現をめざして行動することを本旨とし、特定の利益の実現を求めて公共の利益をそこなうことがないよう努めなければならない。
※綱領の通り、何も言うことはありません。地元、業界、組合など、いづれも重要な支援者でしょうが、ここという重要な場面では、国益、公共益の立場に立ってほしいものです。
【一】
われわれは、政治倫理に反する事実があるとの疑惑をもたれた場合にはみずから真摯な態度をもつて疑惑を解明し、その責任を明らかにするよう努めなければならない。
※綱領の通り。真摯な態度をみせるべきです。
【一】
われわれは、議員本来の使命と任務の達成のため積極的に活動するとともに、より明るい明日の生活を願う国民のために、その代表としてふさわしい高い識見を養わなければならない。
※政治家には、些事、些末なことはさて置いて、国家意識を明確に持ってもらいたいと願うものです。国家意識の乏しい政治家が多すぎるので、国会の議論が空回りし、時間を浪費しているように思えます。国家意識のない人は政治家になるべきではありません。そのような人は国民にとっては大迷惑。今や、世界は激烈な競争社会であり“井の中の蛙、大海を知らず”の人材では世界に伍していくことはできないでしょう。謙虚な姿勢のなかでの高い識見が求められていることははっきりしています。
国会の騒動をみると何ともあきれ果てます。傲慢、横柄、汚いヤジの応酬、上から目線、国会内プラカード、国会18連休・職場放棄、パフォーマンスのオンパレード、…いかにも低レベル。政治家には、良識と美徳に溢れた政治倫理綱領のレベルに早く戻り、真の選良としてご活躍願いたいものです。
それとも、政治倫理は見果てぬ夢?
“政治家に古典道徳の正直や清潔などという徳目を求めるのは、八百屋で魚をくれというのに等しい”(秦野章法務大臣)という名言の通り、元々倫理感等を持たない人に、それを求めること自体が無理なことなのでしょうか。
みなさんはどのようにお考えでしょうか。
次回は
時事エッセー
です。
| 固定リンク
コメント
「李下に冠を正さず」の一言、同感です。偶然にも『日本』の編集後記にも書きました。初心に返って,襟を正して欲しいものです。ありがとうございました。
投稿: 安見隆雄 | 2018年5月18日 (金) 09時15分