“元号”or“西暦”…時代の空気を表わすには!
683回目のブログです
“時知らぬ 富士のたかねの みゆきにも 春の光は みゆるなりけり”
明治天皇御製(明治31年)
時を知らない富士山の高い峰にある御雪にも春の光が見えることである…。
富士の高峰に降り積もった雪も、春の季節を迎えるようになると、何となく暖かい日差しの春の光が見えてきます。上掲の写真にあるように、桜の花だけでも素晴らしい景色ですが、それに加えて、富士山、それも冠雪の富士ともなれば、一幅の絵どころか二幅の絵が合体した、贅沢な日本の景色の最高峰と言えるのではないでしょうか。
これを、神武の古から平成の今日まで万代に聳え立つ富士の山と言うべきか、2019年に聳え立つ富士山と言うのが良いのか、それは人それぞれかも知れません。
さて、いよいよ4月1日には「新元号」が制定発表されます。どんな年号になるのか皆目わかりませんが、先日、国民が日ごろ使用するのが、元号か、西暦か、元号・西暦の両方かについての世論調査がでました。
■ 西暦より“元号”を使う…4割超 調査
NNN(Nippon News Network)と読売新聞が週末に行った世論調査で、
普段の生活や仕事で元号と西暦では元号を多く使っていると答えた人が最も
多く、4割を上回った。
【元号と西暦のどちらを多く使っているか】
「元号」 41%
「西暦」 25%
「どちらも同じくらい」33%
(3/24 日本テレビ)
元号が、日常かなり使われていることがこの調査でわかります。そのことは、警察庁のパブリックコメントからも窺えるのです。
昨年、警察庁は、日本で運転免許証を保有する外国人が増えていることから、免許証の有効期限をこれまでの「元号」から外国人にもわかりやすい「西暦」に表記を一本化する方向を打ち出し、パブリックコメントを実施しました。
ところが、その結果、およそ2万件の意見が寄せられ、その8割が「西暦だけ」の表記に否定的だったのです。警察庁はこれを踏まえ「西暦(元号)」すなわち、西暦と元号の併記となりました。
そもそも、元号を変える理由は何でしょうか。久禮旦雄・京都産大准教授は、歴史的な観点から次のように述べています。
(1)新天皇の即位による「代位(=即位)改元」
(2)縁起の良い奇跡を記念する「祥瑞改元」
(3)自然災害や戦乱が起きたのを一新する「災異改元」
(4)干支で大きな変革が起こる巡り合わせの年に
差し替える「革年改元」
明治以来は「一世一元」が制度としてあり、明治、大正、昭和、そしてこのたびは、譲位による新天皇即位の改元ということになるのでしょう。
何はともあれ、一般の国民は、元号というものを身近に、大切に感じていると判断して良いかと思います。
ところが、これに異を唱えるメディアがあります。それは、誰しも推測できるであろう、わが国唯一の高級紙を自称する「朝日新聞」に他なりません。もちろん、他の左翼リベラル紙もそうですが、朝日が最も露骨だと言えるでしょう。角度をつけることを社是とする朝日の主張を、3/21朝日新聞社説「『改元』を考える 時はだれのものか」から一部引用します。
・多くのメディアは「平成最後」や「平成30年間」といった表現をよく使っている。一つの時代が終わり、新しい時代が始まる、と感じる人も少なくないだろう。 でも、ちょっと立ち止まって考えてみたい。「平成」といった元号による時の区切りに、どんな意味があるのだろうか。そもそも時とはいったい何なのか。誰かが時代を決める、あるいは、ある歳月に呼び名が付けられることを、どう受け止めればいいのだろうか。
・スターリン時代の旧ソ連の強制収容所には、時計が無かったそうだ。歴史を振り返れば、多くの権力は、時を「統治の道具」として利用してきた。日本の元 号も「皇帝が時を支配する」とした中国の思想に倣ったものである。
・「天皇の死によって時間が区切られる。時間の流れ、つまり日常生活のこまごましたところまで、われわれは天皇の支配下におかれたということになる」(元海軍兵士・作家・渡辺清「私の天皇観」)
・人間は誰もが、何にも代えがたい時を持っている。そうした時の流れをどう名付け、区切るかは、個々人の自由の営みである。時を過ごし、刻む自由はいつも、自分だけのものである。
左翼の元号観が滲み出ている社説といえるのではないでしょうか。彼らは、元号は最も排除すべき天皇の支配の道具、統治の道具、強制のツールであるとみなしており「時」の支配による束縛から免れたいとの願望を強く持っていることを示しています。
この社説を読めば、左翼である朝日が度し難い思想の持ち主であることが良く分かります。文章は何となくソフトイメージを醸し出していますが、言わんとすることは、半島と同じく、恨み、妬み、民族への憎しみ、伝統の拒否、歴史の否定、唯物史観、などなど、豊かな人間性から遠く離れたものを感じざるを得ません。
わが国で最初の公的な元号は「大化」(645年)ですが、全国的に定着したのは、律令制度の整備が完成した「大宝」(701年)以降になります。1400年近く続いてきている元号は、素直な気持ちで引き継いでいくべきではないでしょうか。そんなに、イデオロギー丸出しで、排除の論理を展開することは、悠久の歴史に対する個人的な冒涜とみなされることにもなり兼ねず、もう少し謙虚になるべきだと思います。
わが国において、この道の第一人者である、碩学、京都産業大学・所功名誉教授は「時代を『点』で示すには西暦が便利だろう。しかし『帯』として理解するには、元号が優れている」と述べておられます。(3/18 日経BizGate「元号が21世紀まで続く3つの理由」)
今「平成30年を振り返る」「平成史 流行語」など、平成という時代を、平成という元号の時代を、平成の御世を『帯』として理解し、ベクトルを合わせた記事が続々と取り上げられています。したがって、反元号の朝日にとっては、怒りに震え、歯がゆくてならない現象でしょうが、国民の大多数が元号を使用したいと考えているのですから、朝日さん、本当に残念ですね!という以外に慰めの言葉をみつけることはできません。
わたしは、所先生ご指摘のように、元号は時代の「帯」として位置づけることが正しいと考えます。
みなさんはどのようにお考えでしょうか
次回は
時事エッセー
です。
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コメント
いつも卓越した識見に学ばせていただいております。朝日新聞は歴史を支配と被支配の関係でしかとらえない。易の初歩的な理解もない無知をさらけ出している。時を支配するという考えは本来東洋にはなく、古代の王はその時代に流れる時の特色を察知し良き世たれと念じて元号を定めた。宇宙や人生の変転極まりない真理を謙虚に受け止めている。
西暦こそキリスト教を奉ずる国が植民地拡大に伴い、10世紀以降世界に押し付けたもので、しかも日本では明治2年から併記されたに過ぎない。1300年あまり続き247回の祈りがあった元号は超一級の世界文化遺産と言っても良い。朝日新聞は時を自分の都合で決めたいだけで、僭越、無知。
次の御代の元号も祈りがある。政府だけが決めたのではない。カジュアルな装飾語ではない。歴史そのものであり、一体感を以て新しい御代を、国民こぞって意義あるものにしたいと思う。
投稿: 野﨑眞夫 | 2019年3月30日 (土) 14時53分