「霊明神社」…靖国の源流を訪ねる!
708回目のブログです
“帰り来て 見むと思ひし 我がやどの 秋萩すすき 散りにけむかも”
秦田麻呂(はだのたまろ・万葉集)
都に帰りついて見ることができるだろうと思っていた、わが家の秋萩やすすき、あの花々はもう散ってしまっただろうか…。
736年、遣新羅使として唐津市から壱岐の島に向かう時、玄海の荒海を見て旅の遅れによる不安を詠んだ歌であり、行間には、今と同じように、半島との交渉、交流に心穏やかならずのものがあるのだろうことを感じさせます。
9月初旬、ご縁があって、京都の霊山護国神社の隣にある『霊明神社』(霊明舎)で斎行される「令和元年・幕末維新殉難志士慰霊祭」に招かれ参列しました。
わたしは、京都に永らく住んだこともあり、仕事でも京都が主だったこともあり、有名な神社仏閣はほとんど知っているつもりですが、霊明神社は初めて聞く名前でした。
京都で霊山と言えば幕末の志士が眠る地。東山通りから東へ坂道を上ると突き当りには有名な霊山護国神社があり、そこを道なりに右に曲がり更に坂を上がれば霊明神社の入口が左手に見えます(維新の道)。
霊明神社の由緒は次の通りです。
・文化6年(1809)創建、神葬祭(神道による葬祭)を行う。
・文久2年(1862)在京志士の葬送・祭礼地となる
・安政の大獄以降の殉難志士の「報国忠士の霊魂蔡」が始まる。
・元治元年(1864)久坂玄瑞が先祖の永代供養を依頼。
・元治元年(1864)池田屋事件で死亡した吉田稔麿らの遺体を埋葬。
・その他、坂本龍馬・中岡慎太郎など維新の志士が埋葬される。
・明治10年(1877)霊明神社のほとんどの土地が没収され、
霊明神社の場所に霊山護国神社が創建されることになる。
分かりやすく言えば、霊明神社(霊明舎) ⇒ 京都護国神社(東山招魂社) ⇒ 靖国神社(東京招魂社)の流れであり、霊明神社が靖国神社の源流ということを示しています。わたしは幕末維新の志士が眠る聖地が京都・霊明神社であることを初めて知りました。まだまだ京都に不案内であることを痛感したところです。
「幕末維新殉難志士慰霊祭」の祭典は、宗家による素晴しい詩吟・神戸海援隊による熱のこもった歌唱の奉納を含め、厳かに斎行され、幕末維新の志士の御霊も慰められたのではないかと推察した次第です。不肖、わたしも玉串奉奠の榮に預からせていただきました。
参列者は、遠くは横浜からも、また若い男性や女性(一部にはいわゆる歴女?)も、直会、懇談会では維新の志士についての熱い思いを述べておられたのが印象に残っています。そして、八世神主の村上繁樹さんは学識豊かな方で、維新の志士を語られる含蓄のあるお話しにはみなさん耳を傾けておられました。
なお、7月には「秋湖祭」(久坂玄瑞命日祭)が執り行われたとのことでした。
吉田松陰先生から「松下村塾」の英傑と言われた久坂玄瑞のエピソードをひとつ。久坂玄瑞は、京都から長州へ還る途中、備中松山藩の軍事教練を見学しています。
当時の備中松山藩は疲弊しきっており、元締と吟味役をかねた“山田方谷”(やまだほうこく)は、財政再建を中心に基本方針として、①上下の節約、②負債の整理、③藩札の刷新、④産業の振興、⑤民政の刷新、⑥文武の奨励 の諸策を講じている最中でした。方谷は偉大な人物であり、日本のケインズと称されています。
山田方谷は藩の防衛にはことのほか心を配り「最先端の洋式軍備」を導入、農民で組織する「里生隊」を創設し、洋式の軍事教練を実施。その軍事教練が川原において農閑期に行われたのですが、その状況を久坂玄瑞が見学しており、技術の高さと統制の見事さに驚嘆。久坂玄瑞はこのことを高杉晋作に熱い感動をもって伝え、それが「奇兵隊」につながったと言われています。…情報は単に伝えるだけではなく“熱い心”で伝えることの大切さを学ぶことができるのではないでしょうか。
高杉晋作と言えば、維新回天の魁(さきがけ)として名を馳せた「奇兵隊」の創設者。わたしの最も尊敬する高杉晋作のエピソードもひとつ。
奇兵隊は藩士と藩士以外の武士・庶民からなる混成部隊であり、兵を集める前日にうたった“都々逸”に高杉晋作の並々ならぬ自信と心意気を窺うことができます。
“ 真があるなら 今月今宵 あけて正月 だれも来る ”
上の都々逸は“ 同じ来るなら 今月今宵 明日になったら 誰も来る ”とも伝わっています。奇兵隊は現代企業用語に移せばまさしくベンチャーそのもの。新規事業、ベンチャーを経験した人であれば、誰しも思ったことではないでしょうか。リスク一杯の事業を推進しようとする時、なかなか人は集まってくれません。上手く行き出すと、我も我もと集まってきます。そう“明日になったら誰も来る”のです。(…わたしはこのことを企業人生のなかで如実に経験しました)
“同じ来るなら今月今宵”“真があるなら今月今宵”、今日来てこそ、今宵集まってこそ、その人間が奇兵隊の強い軸になるのだ。…高杉晋作の心意気は現代のベンチャーにも繋がるものだということも認識すべきではないでしょうか。
何はともあれ、小難しいイデオロギーなどは抜きにして自然な心で歴史に向き合うことが大切です。今、東京の靖国神社が、諸外国からのいちゃもん、口撃によって、また、それに呼応する国内のサヨク反日イデオロギーによって、静かな祈りの場、慰霊の場でなくなっていますが、果たしてこれで「日本国」と言えるでしょうか。少なくとも、民族の祈り、国民の祈りは「静謐な雰囲気」のなかで行われるべきであり、それを整えるのは政治、すなわち政府や国会や裁判所の使命でもあると考えます。
「霊明神社」の「令和元年・幕末維新殉難志士慰霊祭」に参列して感じたことを記しました。
みなさんはどのようにお考えでしょうか。
次回は
時事エッセー
です。
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