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2019年10月25日 (金)

天王山“勤皇十七烈士”…招魂祭・お墓参拝!

 713回目のブログです

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  勤皇十七烈士の墓

  “大山の 峰の岩根に 埋めにけり わが年月の 大和魂”
             真木和泉守(勤皇の志士・辞世の歌)

 大山とは歴史に有名な天王山のこと。天王山は京都府乙訓郡大山崎町にあります。

 今、ラグビーWカップが大いに盛り上がっています。残念ながら「日本チーム」は、準々決勝で南アフリカに敗れましたが、大健闘、TV視聴率も最高53.7%という驚異的数字となり、活力を失いつつあるわたしたち国民に元気を与えてくれました。決勝までまだ4試合が残されており、楽しみたいものです。

 日本のラガーマンや多くの関係者には謙虚な姿勢が溢れており、これは、ラグビーの本質を体現しているからだと考えられます。それだから、テレビを見ていても清々しい気持ちになれるのではないでしょうか。

   ≪ラグビー五つの精神≫
       品 位
       情 熱
       結 束
       規 律
       尊 敬

 これを歴史や政治の世界、特に幕末における勤皇の志士に見れば、品位、情熱、結束、規律、尊敬に、尊皇・愛国の精神を加えたものと言えるのではないでしょうか。

 その一端を “勤皇十七烈士” に見ることができます。

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   離宮八幡宮拝殿

 つい先日、令和元年「天王山勤皇十七烈士招魂祭」に参列しました。場所はJR山崎駅からすぐそばの離宮八幡宮。ご遺族、離宮八幡宮、顕彰会、地元の方、政治家、来賓など多数が参列するなかで厳粛に執り行われました。

 離宮八幡宮の主祭神は応神天皇、神功皇后、酒解大神、比売三神であり、貞観元年(859)の創建、淀川を挟んで対面にある石清水八幡宮の元社でもあります。名前の離宮は嵯峨天皇の離宮跡であったところから。また、日本の製油発祥地として崇敬されています。幕末、「禁門の変」の時に、長州藩の屯所が山崎にありました。

 祭典は午前中に終わり、午後2時からの「勤皇十七烈士のお墓参り・墓石等修復完成式」に出席しました。お墓は天王山の頂上から少し下のところにあります。徒歩で40分~1時間。いわゆるハイキングコースとなってはいますが、すこぶる急峻、岩、石がゴロゴロした道です。途中までは車で行きました。車を降りてから、大阪平野を一望できる展望広場もあり、ほっとすることもできましたが、それでも、しんどい山道であり、汗をびっしょり掻きました。天王山の山頂の高さは270.4m。

 昨年の強烈な台風で、大阪府北部と京都府南部の住宅の屋根瓦が飛んだり、山々の大木も数多く倒れるなどその被害修復に丸1年かかっています。この勤皇十七烈士のお墓も例外ではなく、手水舎、柵石、お墓などが被害に遭い、多くの方のボランティアや寄付などにより、漸く修復完成に至ったとのことです。

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       ↓↓↓

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 勤皇十七烈士の墓は、禁門の変(1864)の時、戦いに敗れ、天王山中で自刃した真木和泉守以下17名の眠るお墓です。

 時は江戸幕府末期、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が長州藩を主軸とする尊皇攘夷派を京都から追放した事件が生じました。政変に敗れた長州藩は、失地回復をねらい、池田屋事件をきっかけに京都へ出兵、禁門の変が勃発。

 「禁門の変」は、長州藩を中心にした尊皇攘夷派が京都守護職(会津藩主)松平容保らを排除しようとして京都市街戦を繰り広げた戦いを言います。最初、長州藩は優勢でしたが、薩摩藩兵が会津藩の援軍に駆けつけると形勢逆転、尊皇攘夷派は退却を余儀なくされたのです。

 この山崎に退いて、長州藩兵の国元引き揚げを見送った尊皇攘夷派の真木和泉守ら17名は、朝廷のある京都を去るに忍びないとして、天王山に登り、壮烈な自刃を遂げました。烈士17名の名前は以下の通り。

  久留米 4名 (真木和泉守・松浦八郎・池尻茂四郎・加藤常吉)
  肥  後 6名 (小坂小二郎・加屋四郎・中津彦太郎・酒井荘之助
                ・宮部春蔵・西嶌亀太郎)
  筑  前 1名 (松田五六郎)
    土  佐 4名 (千屋菊二郎・松山深蔵・能勢達太郎・安藤真之助)
    宇都宮 2名 (岸上弘・廣田精一)

 「天王山」と言えば、言わずと知れた「天下分け目の大決戦」。羽柴(豊臣)秀吉と明智光秀が覇権をかけた山崎の戦い、その合戦の舞台が天王山。…これは、日本人ならば誰でも知っている歴史のヒトコマでしょう。「天下分け目の天王山」という言葉は、政治の世界でも、スポーツの試合でも、重大な局面での比喩として頻繁に使われるほどになっています。

 しかし、待ってくれませんか。天王山は、確かに秀吉と光秀の決戦の舞台ですが、忘れて欲しくないのが、勤皇の17烈士が自刃した場所でもあるということです。ところが、17烈士のことを知っている人は極めて少ないように思えてなりません。

 わたし達は、天王山と言えば、ひとつに山崎の合戦、ひとつには勤皇17烈士の自刃の場、このふたつのことを頭に入れるべきではないでしょうか。

 来年、令和2年(2020)のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」では戦国武将の明智光秀が主役ですので、必ず「天王山」が登場するでしょう。その時には、天王山は、明治維新のひとつの大きな原動力であった真木和泉守ら勤皇十七烈士の自刃の場でもあることに思いを廻らせるとともに、このことを、家族、知人に知らしめて欲しいものです。

 さいごに。先日の10月22日、天皇陛下は「即位礼正殿の儀」において即位を宣明されました。あらためて、わが国2679年の『悠久の歴史』に思いを馳せ『皇室』のますますの弥栄を祈念したいと思います。

 みなさんは、どのようにお考えでしょうか。

次回は
時事エッセー
です。

 

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