立憲民主党「ZEROコロナ戦略」… 不毛なゼロリスク信仰だ!
780回目のブログです
“春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出立つをとめ”
大伴家持(奈良時代・万葉集)
春の庭が紅の色に美しく照り輝いている。桃の花に染められて仄かに赤く色づいた道に佇んでいるよ、紅の裳裾を垂らした少女たちが…。
三月三日は桃の節句(ひなまつり)です。雛祭りには、女の子に災いが降りかからず人生の幸福が得られるように、という家族の心からの願いを込めて、ひな人形を飾るようになったと伝わっています。本当にそうあってほしいと願いたいものです。
ところで、小ブログは週一回の発信で780回、丸15年になりました。振り返れば、平成18年(2006)3月3日がスタート。この間4回の休みをいただきましたが、いつの間にか15年を越えることになりました。これも、適度な体力と多少の気力があったからとも思いますが、何と言っても、お読みいただいている方々の暖かい励ましがあったればこそだと信じています。
近年は時事エッセーと称して時事ネタを適当に取りあげていますが、内容的には大したものはなく、自らの学問の浅さはもとより知識の少なさと教養の低さに恥じ入るばかりです。さはさりながら、今後もできる範囲で続けたいと思いますので、ご支援の程よろしくお願い申し上げます。
さて、世の中は、コロナ、コロナ、の大合唱。毎日のテレビを見ても、ニュースもワイドショーもまずコロナから始まります。今まで、政府・与党のコロナ対策ばかりに目をやっていましたが、ここで、野党第1党の立憲民主党の発言にも目を向けたいと思います。
■ 立憲がゼロコロナ戦略 感染収束を優先、政権と違い明確化
立憲民主党は26日、新型コロナウイルス感染を収束させた上でその後の生活再建を目指す「ゼロコロナ」戦略を発表した。感染防止策、医療・困窮者支援などの集中展開で感染を抑止してから、通常に近い生活や経済活動に戻すと強調。菅政権の感染対策と経済再生の両立を図る「ウィズコロナ」との違いを明確化させた。
(2021/02/26 JIJI.COMより)
立憲民主党の枝野幸男代表は、新型コロナウイルスの感染を完全に収束させた上でその後の生活再建を目指すとしており、これを「ゼロコロナ戦略」と称しています。一方、政府(菅義偉政権)・与党は、感染対策と経済再生の両立を図ろうとする政策を推進しており、これを「ウィズコロナ政策」と名付けています。
「ゼロコロナ」or「ウィズコロナ」、まさにキャッチフレーズ争い。『政治』がキャッチフレーズ、キャッチコピーに堕していることは、東京都小池都知事の連日の言動を見れば明らかです。キャッチフレーズとファッションとパフォーマンスが政治だと錯覚しているように思えてなりません。
ここで、ゼロコロナについて考えてみたいと思います。
・枝野代表は、感染が減って社会経済活動を活発化させれば、また感染が拡大して元の木阿弥になると言っていますが、これは、まさしく「ゼロリスク信仰」に他なりません。現在、人類は、風邪ウイルスやインフルエンザウイルスを根絶できていないにもかかわらず、未だに全容が解明されていない新型コロナウイルスをどうやってゼロに導くのでしょうか。確かに、ゼロになればそれに越したことはありませんが、素人でもわかる超大風呂敷と言わざるを得ません。
・キャッチフレーズを弄ぶのは旧民主党の得意とするところ。政治として、政策として、失敗したにもかかわらず、それに学ばず、いまだに「夢想」を続けていることから判断できます。もっと現実に立脚した政策を練り上げるべきではないでしょうか。
・民主党政権は、平成21年(2009)~平成24年(2012)の3年3ヶ月、総理大臣は鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦の各氏であり、その特徴はマニフェスト<キャッチフレーズ>政治でした。民主党政権の重鎮だった枝野氏は、今日でも、マニフェスト(政権公約)政治を鮮明に記憶しているはずですが、あるいは忘却の彼方へ追いやっているかも知れませんので、ここに記憶を呼び起こしてみましょう。
× 八ッ場ダム建設中止
× 予算の組み替え
× 子ども手当
× 高速道路無料化
× 後期高齢者医療制度廃止
× ガソリン税暫定税率廃止
× 最低時給1000円
× 天下り廃止
× 公務員総人件費2割削減
× 議員定数削減
× 企業団体献金廃止
× 米軍普天間飛行場移設
懐かしい項目ですね。何ともはや、10年前のゴタゴタ政治の記憶が蘇ってきました。マニフェストの実態を検証してみれば、すべてが✖印という惨憺たる結果と言わねばなりません。マニフェストという政策は、単なるキャッチフレーズだけでは意味はなく、①具体的な施策、②具体的な実施期限、③具体的な数値目標が必要であり、加えて、それを実施していくための勇気、胆力が必須のものとなります。
・ところで、リスク管理政策はリスクをゼロにすることではなく、「リスクはゼロであるべき」「リスクが少しでもあれば見直さなければならない」というゼロリスク信仰は、害はあっても益はないもの。そして、リスク対策には“金”と“時間”がかかるものです。残されたリスクが小さくなればなるほどコストは加速度的に増加していくことを認識しなければなりません。
・立憲民主党の枝野代表は、なぜ、いまだに、失敗したマニフェスト政治の尻尾を引きずっているのでしょうか。
ドイツの鉄血宰相・オットー・ビスマルクは『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。そして聖人は経験から悟る』という格言を残しており、世界的経営学者・ピーター・ドラッガーは『未来は過去の延長線上にある』と言っています。
そうであるとすれば、ビスマルクやドラッガーの言葉に学び、枝野代表は、少なくとも10年前のマニフェスト政治の失敗を乗り越えることが肝要ではないでしょうか。
ZEROコロナ戦略は、不毛なゼロリスク信仰と言わねばなりません。自らの経験に学びましょう、広く歴史に学びましょう、未来は過去の延長線上にありますから…。
立憲民主党は、『日本国』の誇りある野党として、また、近い将来『国民および国家』を代表するかも知れない健全な政党として、外交、内政に多くの問題を抱えている与党(自由民主党・公明党)に刺激を与える存在になってほしいと思いますが……。(正常なる国家意識の極めて薄い人たちの集う政党には所詮無理というものでしょうか。)
みなさんはどのようにお考えでしょうか。
次回は
時事エッセー
です。
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コメント
自民党政権のwith risk政策に対して立憲改進党はzero risk政策をとるという枝野氏の言葉は西欧近代の左翼思想家と整合していて面白い。民主党の党首だった鳩山由紀夫の沖縄の米軍基地に関する「最低でも県外」発言とも完全に符合している。19世紀の「空想社会主義」は有名だが、「空想」とは社会主義の国を作るのが空想なのでなく、彼らの考えている社会や人間に対する認識が空想に過ぎないということである。彼らは自分の夢の中、空想の中で、新しい社会・人間を思い描いているに過ぎない。故に適合しない人間は改造するなどという神を恐れぬ犯罪を思いつく。裕福で学歴もある、一見知的な人がフランス革命やロシア革命などで奔走して無残な人生を送ったが、彼らに共通しているのは、戦争のない世界、貧困や飢餓のない世界、福祉の行き渡った世界、核のない世界、等々、といったリスクゼロ、感染者ゼロ、社会の不幸ゼロの世界という観念世界を現実の世界で叫び、その実現を求めることである。その結果、世界平和を説きながら異論を説く同志を抹殺した日本赤軍、その何万倍の規模で同志や同じ民族を抹殺した毛沢東やスターリン。政治世界で最も重視すべきは「中庸」である。それは日和見主義や修正主義とも揶揄できようが、社会に現実に存在するものをゼロにするには社会に大きな混乱と犠牲を伴うのは当然である。50対50でも、40対60でも「中庸」である。
投稿: 齋藤仁 | 2021年3月 5日 (金) 08時48分