『ジェンダー平等への疑問』…男より女の幸福度が高い日本!
798回目のブログです
“天の川 水陰草の 秋風に 靡かふ見れば 時は来にけり”
詠み人知らず(万葉集)
天の川を見ると、川辺の草がしきりに秋風に靡いている。ああ、逢える時がいよいよやってきたのだ…。
織姫に逢える秋の到来を喜んだ牽牛の歌であり、1年に一度しか逢えない織女星と牽牛星。このロマンチックな “七夕の雅び” に天の川の果たす役割も大きなものがあります。
昨今、ジェンダー平等というギスギスした言葉がマスメディアを賑わししていますが、時には、男女の仲、七夕祭りのような優雅な夢を見ても良いのではないでしょうか。
わが国のマスコミは、女性がひどく差別されていると言いますが、本当にそうなっているのか、いろいろな観点から見ていきたいと思います。
●『ジェンダーギャップ指数』
・スイスのシンクタンク「世界経済フォ-ラム」2021年版。
・日本の男女不平等ランキングは120位/156カ国中。
・[経済・教育・政治参加] 分野などでの男女格差を指数化した。
・日本のマスコミは、世界120位の女性差別社会を大きく報道。
●『ジェンダー不平等指数』
・国連開発計画「人間開発報告書」の2020年版。
・日本の男女不平等ランキングは24位/162カ国中。
・安全に出産できる環境を重視
・日本のマスコミは、不平等が24位では面白くないので報道せず。
スイスのシンクタンクでは、『ジェンダーギャップ指数』ランキング120位。一方、国連の『ジェンダー不平等指数』ランキングは24位。一体、どうなっているのでしょうか。
まずは、指標の取り方に違いがあります。『ジェンダーギャップ指数』では、大臣、管理職、など政治・経済分野のウエイトが高い。
その他、「ジェンダー不平等指数」には、「妊産婦死亡率」や「未成年出生率」などの指標が入っていますが、同フォーラムはその代わり、「新生児の男女比率」と「健康寿命の男女差」を健康分野の指標としているのです。
ところで、日本の「新生児の男女比率」は1位、「健康寿命の男女差」は72位。こんなものが指標になるのでしょうか。わが国では、新生児は一般的に普通に生まれてきますし、健康寿命の男女差がジェンダー論に結び付くのか大いに疑問があります。
マスコミは、データーを沈着冷静に読み取り、与えられたデーダを金科玉条に押し頂くのではなく、問題点を指摘すべきであり、いたずらにイデオロギーを振り回すべきではないと思います。
【G7先進国の男女平等ランキング】
順位 ジェンダーキャップ指数 ジェンダー不平等指数
1位 ドイツ 11位 フランス 8位
2位 フランス 16位 イタリア 14位
3位 英国 23位 カナダ 19位
4位 カナダ 24位 ドイツ 20位
5位 アメリカ 30位 日本 24位
6位 イタリア 63位 英国 31位
7位 日本 120位 アメリカ 46位
(世界経済フォーラム) (国連開発計画)
最近のメディア論調では、ジェンダー不平等が女性の不幸せの原因であり、それを克服しなければ幸せな生活は望めないという意見がリベラルサヨクの多くに見られますが、果たしてそうなのでしょうか。足元を見てみましょう。
【女性の幸福度が男性を上回り続けている日本人】
(幸福度の男女差の推移)
(幸福度%) (男) (女) (女性マイナス男%P)
2019年 84.2 91.5 7.2
2010年 82.2 90.4 8.1
2005年 85.9 88.3 2.3
2000年 83.7 88.9 5.2
1990年 73.5 81.6 8.1
1981年 73.6 80.1 6.5
ここで主題としているのは男女差ですが、女性の幸福度から男性の幸福度を引いた数字で追ってみると、1981年から1990年に6.5%ポイントから8.1%ポイントへと開いた後、2005年にかけて2.3%ポイントまで狭まり、2010年には8.1%ポイントと再度広がっています。2019年にもほぼ同レベルの7.2%ポイントの開きとなっています。
上掲に見る幸福度の男女差の推移を見れば、日本においては女性のほうが男性より幸福感を感じやすい状況が続いていると言えるのではないでしょうか。
国際比較においても、日本においては女性の方が幸福感を感じやすい数字となっています。世界価値観によれば、幸福度のデータでは、日本はフィンランドに次ぐ世界第2位になっているのです。7回にわたる調査では、日本の順位は、1位が3回、2位が2回、3位が1回、11位が1回。見事なまでの数字ではないでしょうか。(本川裕論稿より)
ジェンダー平等とは、歴史を通して作られてきた「社会的・文化的性差」のことです。昨今は、何でも平等、何でも男女関係で括ってしまおうとする粗雑な議論が横行しすぎてしているのとしか思えません。
これはわが国だけはなく、アメリカでも同じこと。男女共用のトイレが一般化し、治安に問題が生じるなど、おかしな方向に向かいつつあります。合衆国に生じた大真面目な笑い話…。
「アーメン」は「メン」(男性)だけで差別的だから「ウーメン」も加えて、「アーメン、アンド、アーウーメン」と唱えるべきだなどという提案が下院議会で大真面目になされている」(――アーメンはヘブライ語で「かくあれかし」の意で、もちろん「男性」の意味ではない)
何でもかんでも、カタカナ言葉を掲げれば良いのではありません。小池都知事が最も得意とするカタカナ言葉、ローマ字言葉は、中身が空疎であればある程、事態を混乱させてしまうものです。築地、豊洲、五輪、コロナ、パフォーマンスの連続、正しくその通りになってきた思いがします。
いわゆるジェンダーについては、社会的、文化的、性差と、生理的性差を合わせた落ち着いた議論を進めるべきであり、間違っても、奇矯の論に走るべきではありません。ましてや、分断が進むアメリカ社会を見習う必要は毛頭ありません。
みなさんはどのようにお考えでしょうか。
次回は
時事エッセー
です。
| 固定リンク
コメント
性差とはオスとメスという生物的区別であって、それに人間世界の「社会的差別」という意味はないはず。「ジェンダーフリー」という言葉も「社会的活動」においては男女の違いでなく個性の違いを基準にそれぞれの個性に応じた活躍の場を、という意味だったはず。それを特定の思想の持主、或は騒ぐことによってメディアの注目を浴びたい人などが、政治的意味を持たせてきた。言語が政治的な意味を帯びれば、その言葉を用いる人々の間に組織ができる。特定の集団や組織が好んでその言葉を使うことで、中立的な人々、その言語に無関心だった人々は、いつの間にか社会全体がその言葉を特定の意味合いでしか使うことをタブー視していることに気づく。言葉狩りは人々の自由な発想を制限する。一元的な価値観の社会・国家に導かれてしまう。だから古代からの専制を誇り、今も一党独裁国家のシナに誕生した国は言葉狩りを重要視してきた。シナで初めて「皇帝」を名乗った秦の始皇帝の「焚書坑儒」に始まり二千余年を過ぎた現代の中国主席毛沢東や習近平の官製言語の強制と自由言語の弾圧を見れば、言語の政治化がいかに人間文化を衰退させるか一目瞭然である。しかし、その不毛な言語の政治化を日本やアメリカの自由社会の自由こそ命のはずのメディア界が率先してやっている。自由社会の言葉狩りの起源はフランス革命前後の社会主義思想にある。王権の絶対主義に抵抗した、シナの専制国家を嫌うはずの庶民の自由な発想から生まれた社会主義思想が、絶対主義国家以上に言葉狩りを求める、これこそ人間がいかに愚かな生き物であるかの証ではないだろうか。ここ数年アメリカのメディア界がやってきた「トランプ嫌悪」の言葉狩りはその典型だろう。「バイデンよりトランプのほうが人間として信頼できそう・・」と個人的感想を呟いただけで、特定の党員でもなく政治的関心もない人でもメディアや映画・テレビの世界から干された人は数知れないのではないか。過剰な言葉狩りは人間から本当の自由を奪ってしまう。本当の自由とは空想する自由であり、発想する自由であり、それらの思いを一つにつなぐ自由である。もちろん思いを繋ぐのは言葉である。言葉を奪われたら空想も発想も枯れ死にする。自由主義世界のメディア人の猛省を促したい。
投稿: 齋藤仁 | 2021年7月23日 (金) 08時31分